むかしむかし、あるところに。
暗闇のなかで寂しく泣いている、ひとりぼっちの少年がおりました。
これは、かかとをなくした赤い悪魔のお話です。
第一章 レナンド・ビルシュタイン
唄が聴こえる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
やさしくゆれる、風のような唄が。
レナンドは目を閉じた。髪を梳いてくれる愛しい人の指に、誘われるように。
知らなかった。
身を焦がすほどの、恋を。
その柔い肌に触れるだけで、涙が溢れてしまいそうになるほどの恋を。
愛することに恐れさえも抱くような、そんな激しい恋を。
俺は知らなかった。エリーゼに出会うまでは。
*
典型的な、政略結婚だった。
レナンドが居住する邸宅は、将軍として功績を残し、爵位を授けられた際に与えられたものである。
つまり、代々続く屋敷ではない。
故に、夜会等に出席しても陰口を叩かれることもしばしばあった。
とはいえ、この彫刻の如き美貌と、均整の取れた逞しい肉体である。そして先の戦いで数々の武勇伝を残した将軍という地位故に、ひと睨みをすればみな押し黙った。
しかし、地盤を固めなければせっかく与えられた地位もすぐに揺らいでしまう。だからこそ由緒正しき家柄の娘と婚姻関係を結び、その一族と親類縁者となることで己の地位を確立させる必要があった。
ただし、財はあれど、取ってつけたように爵位を与えられた「成り上がり」のビルシュタイン家だ。ましてや自分は、女、子どもにも容赦しないと名高い、「赤き悪魔のレナンド将軍」である。
一夜限りの遊び相手ならともかく、嫁ぎ先にと選ぶ貴族のご令嬢などどこにもいるはずもなかった。
そんな時だ。名門のキャベンディッシュ家から縁談の話を持ち掛けられたのは。
由緒正しきキャベンディッシュ家が、なぜ成り上がりのレナンドに一人娘を差し出そうとするのか。
理由は一つ、キャベンディッシュ家はここ数年で財政が大きく傾いているからだ。
つまり、苦渋を飲んで可愛い娘を差し出し、その代わりにレナンドから結納金を含む金銭的な援助を得ようという魂胆だ。
他家に援助を求めれば噂はすぐに広がり、見下される。それならば素知らぬ顔で、「良いご縁」だとばかりに娘の身を落としたほうがまだマシだと考えたのだろう。
いかにも権力思考の金持ちが考えそうなことだ。まったくもってくだらん。
だがそれは、レナンドにとっては申し分のない話だ。
花嫁代金は高くつくが、歴史あるキャベンディッシュ家と関係を結ぶことができれば、我がビルシュタイン家にもこれ以上ないほどの箔が付く。
だからこそ、結婚話はとんとん拍子で進んだ。
その間、肝心の妻となる「エリーゼ」という女の噂は至る所で耳に入ってきた。
自分勝手で、とんでもない性悪で、気に入らない侍女はすぐに折檻し、金遣いが荒く、無類の宝石好きのとんでもないお嬢様──エリーゼ・キャベンディッシュ。
公の場で彼女を見かけたことは一度もない。
なぜなら彼女は体が大層弱く、些細なことで体調を崩しては寝込んでしまうほどの虚弱っぷりらしい。屋敷の外に出ることはほとんどなく、人前にもなかなか姿を現さないとか。
故に友人と呼べるような存在もおらず、両親からは甘やかされ放題で育ったようだ。
火の無いところに煙は立たないという。きっと事実なのだろう。
実際、キャベンディッシュ邸を訪れた人々は皆、口を揃えてこう言っていた。なんでも、周囲を顎で使い、当たり散らすエリーゼ嬢のどうしようもなさには辟易するばかりだった、と。
傍に控える侍女たちの腕には、エリーゼによる虐待の痕が刻み込まれていたらしい。
プライドだけが山のように高く、絢爛豪華な部屋で大げさに我が身を憂う。
特筆すべき点など、その見目のみ。
まさに金持ちの娘にありがちな、典型的な我が儘お嬢様。
キャベンディッシュ家の夫妻はそんなどうしようもない娘を溺愛していた。
だというのに、目に入れても痛くないほどの可愛い一人娘のために、世界各地から名医を集め高額な医療を施し、さらにはこれ以上ないほどの贅沢をさせていたことも災いし、お家が潰れかけ、娘を差し出すことになったのだから本末転倒である。
幼い頃からの献身的な看病により、エリーゼの体はそれなりに強くはなった、らしい。それでも病弱であることに変わりはないので、子を成す場合には十二分に気を付けてほしいとも釘を刺された。無理だけはさせないように、と。
それは、暗に別の所で子を作ってもよいと言われたも同然だった。
正直、願ったり叶ったりだった。なにしろエリーゼ・キャベンディッシュを妻として迎え入れることに異論はなくとも、正式な妻として扱うつもりは毛頭なかったのだから。彼女の悪評などどうでもいい。ただ、妻として利用可能な「女」でさえあればいい。
元より、一人の女に拘るつもりは微塵もない上に、愛人も多数いる。
もちろん、我が儘なご令嬢に資産を食い潰されてはたまらないので、それなりの部屋と金は与えるつもりだが、特別優遇するつもりはない。仮に放置した結果怒り狂ったエリーゼに離縁を申し込まれても、キャベンディッシュ家の財政難を考えればそれも不可能だろう。
なにしろ、落ちぶれかけた家の名誉を守るために、実の両親に駒の一つとして扱われたのだから。
まぁエリーゼも、少ない持参金でどこぞの好色爺の後妻として嫁がされるよりはまだマシのはずだ。
互いの利点のみを貪り、見たくない部分には目をつぶる。始まる前から、すでに終わりが確定している白けた結婚生活──そう。
これは、特段珍しくもない、典型的な政略結婚というやつだった。
心など、伴っているはずがない。
*
「お初にお目にかかります……レナンド様。エリーゼと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
まず目に入ってきたのは、透き通る翡翠色の瞳。
両手を胸の前で合わせる可憐な仕草は想像通りで、反吐が出る。
レナンドに媚びを売ろうとしている顔だ。
初めて顔を合わせた少女の見目は、まぁそこそこだ。美少女の部類には入るだろうが、特別美しいと持て囃される顔ではない。こんな顔ざらにいる。それに、著名な画家をわざわざ呼び寄せ、大枚をはたいて描かせたらしい肖像画は既に送られてきており、一度目を通している。
顔立ちはそこに描かれた通りだったが、実物は眦がさほどつり上がっていない。それだけで少し気弱そうに見えた。
もう少しメリハリのついた体でもしていれば話はまた違ったのだろうが、背も低く華奢で、胸は真っ平ら。体は四本の枝がくっついた棒のようで、見るからに甘やかされて育った深窓のご令嬢といった出で立ちだった。
正直、好みではない。レナンドの隣を歩けば霞む、その程度の女だ。
レナンドが囲っている女たちの方がよっぽど男を知り尽くし、色香があって美しい。
唯一イメージと大きく異なる点があるとすれば、予想していたよりも身に纏っている装飾品が派手ではないということだろうか。むしろ、質素な部類に入るだろう。夫となる相手との初めての顔合わせだというのに、全体的に必要最低限の物のみで着飾っているようだった。
戦略はわかる。大方、財力難と余裕のなさをアピールし、同情を引くための策だろう。ご苦労なことだ。
だからこそ、レナンドは冷酷に言い放った。
「軽々しく俺の名を呼ぶな。耳が穢れる」
かすかに目を見開いたエリーゼは、一瞬、言葉を失ったようだ。
いい気味だ。組んでいた長い足を解き、椅子からゆっくりと立ち上がる。
「いいか、先に言っておこう。家の事情でおまえを迎え入れることになったが、おまえを愛することはない。後継ぎは愛人のどれかに産ませる。式も挙げるつもりはない」
レナンドの子を産みたいとねだる愛人は多い。正式な妾となれば、死ぬまで贅沢ができるからだ。何人かの女にそれぞれ子を産ませ、後継ぎとなりそうな才ある子どもをエリーゼとレナンドの子どもという名目で育てればいい。
地位や名声は欲しいが、特別血筋に対する拘りを持っているわけでもない。
それはレナンドの出自がそうだったからだろう。親の顔も知らなければ、兄弟姉妹がいるかもわからない。孤児院出身の身で、ここまで駆け上ってきた。
全て、己の力で。
だからこそ忌々しいのだ。自分の力で奪うでもなく、望むままに他者からなんでもかんでも与えられ、骨の髄まで愛され、幸福の中で生きているような人間が。
「その貧相な体で俺を誘惑しようとは思うなよ、エリーゼ・キャベンディッシュ──キツすぎる穴は固くご遠慮願いたいのでな」
せせら笑ってやる。
明らかな侮辱と存在否定をこめた一言に、てっきりエリーゼは顔を真っ赤にして怒り狂うのかと思っていた。なにしろ、家のために仕方なく成り上がりの家に嫁がされた挙句、夫となる人物に「穴」呼ばわりされたのだ。しかもビルシュタイン家に嫁いだ身だというのに、あえて旧姓で呼ばれて。
さぞやそのお高いプライドが傷付いたことだろう。
これを機に、レナンドと愛を交わそうだなんて厚顔無恥な夢はなど持たず、迷惑がかからない程度で好きなように生活すればいい。
そう思っていた、のだが。
「──はい、おっしゃる通りにいたしますわ」
エリーゼの返答は、レナンドの出鼻を挫くには十分すぎるものだった。
「軽々しく尊きお名前を口にしてしまい、申し訳ございませんでした。どうかお許しくださいませ、旦那さま」
ふわりと頬をほころばせ、華奢な指を組むエリーゼ。
「ずっと……ずっと、子ども頃から、旦那さまの元へ嫁ぐ日を夢見ておりました。こうして、たとえ名義上だけだとしても、お慕いする旦那さまの妻となれたことは、今の私にとっては無上の喜びですわ」
これは本当に予想外だった。思わず、耳を疑ってしまうほどに。