愛人を囲う冷徹な伯爵との典型的な政略結婚、そして嫌われからの溺愛、その結末。 下

著者:

表紙:

先行配信日:2024/05/24
配信日:2024/06/07
定価:¥990(税込)
ある結末を迎えたセシリアとレナンド。ひとつの結末を迎えても人生は続く。

セシリアの記憶、周囲の苦しみ、レナンドの後悔と懺悔。
上巻では語られなかった、登場人物達の物語と赤い悪魔のその後のお話。

成分表

♡喘ぎ、二穴、NTR、非童貞、などの特定の成分が本文中に含まれているか確認することが出来ます。

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第五章 セシリア・ザカラヴィル



 これは喜劇か、悲劇か。
 
「お兄ちゃん、お兄ちゃーん!」
 全力疾走して、兄の背中にジャンプした。
「うわっ……もうセシリア! 危ないなぁ」
 セシリアの奇襲に慣れている兄は大きな声を出しはしたが、セシリアが転ばないようにしっかりと腰を支えてくれた。
 そんな兄の脇の隙間から、セシリアはひょこっと顔を出す。
「ねぇねぇ、村の近くの森にお化けが出たんだって」
「お化けぇ?」
「そ! こーんなにおっきくて、真っ赤で、角が生えてるやつ!」
「……で、なに?」
「退治しにいこっ」
「一人で行ってよ」
 どいて、と肘で押し返されてもめげずにしがみ付いていると、兄は諦めたのかセシリアを放置して再び手を動かし始めた。
「やだ! 一人でいったってつまんないもん」
「はいはい」
「ねぇいこ、お兄ちゃんいこ、ねー!」
「行かない」
「サミー、いこ?」
「可愛く言ってもダメ……って、あっこら引っ張るなってば! みてわかんないの? 僕はいま服を洗って」
「そんなのしらない、みえないーっ」
 家事の邪魔をするのは悪いことだとはわかっているけれども、末っ子として甘やかされ可愛がられて育ったせいか、セシリアは少々お転婆だった。というよりも、ワクワクすることはぜーんぶ家族と共有したくてたまらなかった。それに、ちまちま家事をするより動物を追いかけた方が楽しい。昨日だってセシリアが設置した新しい罠で、立派な雄鹿を仕留めたのだ。
 しかし兄──サミュエルは小川でごしごしと服を洗い続けている。今は父の下着を洗っているらしい。つれない兄に、むうと頬が膨らむ。
 セシリアはとうとう最終手段に出た。
「あっ、こら!」
「へへーん」
 秘儀、サミュエルの視界を独占しているものを奪うの術。
「返せってば、それお父さんの下着だよ!」
「やだっ」
 そしてぐだぐだ揉み合っているうちに、二人そろってつるりと滑ってしまった。
「あっ」
 うわ! と叫んだサミュエルは、そのまま川にどぼん。もちろん、兄にべったり引っ付いていたセシリアも引きずられる形で水の中に落ち、盛大な尻もちをついた。
 ぱしゃんと水が弾ける。
 浅瀬だったため溺れることはなかったが、あっと言う間にびしょ濡れだ。
「ひゃあ、つめたーい!」
「も~最悪だよ、服の中まで濡れたぁ……」
 血生臭いものが苦手な兄とは違って、泥まみれになっても動物のフンまみれになってもけろっとしているセシリアである。水なんてなんのその。
 がっくりと項垂れる兄を横目に、ころころ転がりながら水の感触を楽しんでいた。
「お、二人そろって水浴び中~?」
「あ、お母さんおかえりなさーいっ」
「ただいま、二人ともいい子にしてた?」
「うん! あたしもうねぇ、すっごくすっごくいい子だった」
「そっかそっか」
 むんと胸を張って答えると、母──マリアンヌは、からからと豪快に笑って頭をわっしわし撫でてくれた。対してサミュエルは、「どこがいい子? 邪魔しまくってきたくせにさぁ……」と水びたしになったズボンを絞りながらぶつくさ言っていた。
「水も滴るいい男じゃないの、サミュエル」
「母さん! もーホント、親が親なら子も子だよね」
「おまえも私の子だってのに……えい」
「わぷっ……なにすんのさっ」
 サミュエルの顔目がけて、母が手ですくった水をぶっかけた。最初は不満たらたらな顔をしていたサミュエルだったが、意外と負けん気があるのですぐにマリアンヌにやり返した。
 そして、いつものように水の掛け合い合戦が始まる。
「ねーあたしにも、あたしにも水かけてっ」
「くらえっ」
「きゃーっ」
 兄の一撃に、セシリアもきゃらきゃら笑いながら元気よく混ざった。
「なぁに、どうしたの? みんなして。びしょ濡れじゃない」
「あっ、リーナお姉ちゃんおかえり!」
「ただいま、セシリア」
 籠に入った野菜を片手にひょっこりと現れた姉──アイリーンは、びしょ濡れの三人の姿に柔らかく眉を下げた。
「川で遊んでたの?」
「違うよ、セシリアに突き落とされたんだ」
「まぁ、ふふ」
「まあ、じゃないよ姉さん! しかも母さんから水鉄砲食らって散々だ……おかえり」
「ただいまサミー。もう、お母さんったらなんてことするの? ダメよ、私の可愛い弟に」
「ちょっと遊んでただけじゃない、アイリーンは過保護だねぇ」
「お母さん?」
「はーい、ごめんなさーい」
 肩を竦めておどけてみせる母を、アイリーンはめっ、と指を立てて叱りつけた。これじゃあどっちが母親かわかったものではない。
「ねえお母さん、おじいさま元気だったかしら?」
「ぴんぴんしてたよ。呼吸器以外は問題ない、長生きするだろうなーあれは」
「ふふ、よかったわ」
「えー、お母さんじーちゃんに会ったの? ずるい、あたしも~!」
 じーちゃんとは、ふもとの村でちょっと偏屈な爺として有名な壮年男性だ。体もあまり丈夫ではなく、最近、息子夫婦が家を出て行ったとかで意気消沈していた。彼は無口でちょっとぶっきらぼうなので誤解されやすいが、セシリアにはよくしてくれる。
「セシリアはこの前も会っただろ? 大量のチョコレイトもらって帰ってくるんだから、まったく」
「だってじーちゃんがくれるんだもん、チョコおいしいもん」
 あたし悪くない、と胸を張れば、やれやれと母親に呆れられた。
「ねぇねぇ、次の往診には、あたしも連れてってくれる?」
「ああ、約束してたからな。図鑑の薬草も全部覚えたんだろう? たいしたもんだよ」
「やったー!」
 きゃいきゃいと水の中を飛び跳ねている間に、サミュエルは母に強く引っ張られて川から上がってしまった。
 もちろん、セシリアにも手が差し伸べられた。白くてすべらかな手が。
「ほらセシリア、こっちにおいで?」
「えー、まだ遊びたい……」
「だめよ、風邪をひいちゃうでしょう? 貴女が病気になったら、お姉ちゃん悲しいわ」
 まだ水遊びをしていたい気持ちもあったが、結局天秤が傾いたのは優しい姉の手の方だった。
 伸ばされた手をしっかり掴み、アイリーンの胸の中にぴょんっと飛び込む。よしよしと頭を撫でてもらえて、セシリアはむふっとすぐにご機嫌になった。
 姉は花を育てることが趣味なので、いつも花のいい香りをまとっているのだ。
「まぁ、服が乱れてるじゃない。誰かに見られたらどうするの? お転婆さんなんだから」
「服いらなーい、じゃまー、裸でいいー」
「またそんなこと言って……元気すぎるのも考えものね。さあほら、はやく立って」
 見かねた姉が服を直してくれた。
 姉が大事にしている白いレースのハンカチで、頬に付いた泥も丁寧に拭われる。最後はぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で丁寧に整えられて、完成だ。
 常に元気が有り余っているセシリアと違って、姉はいつも物腰柔らかだった。
 どこかの貴婦人のようだと村の男子にも人気で、セシリアはそんな上品で温和な姉が大好きだった。
「それで、どうしてお兄ちゃんの邪魔をしたの?」
「あのねっ、フクロウの森の入り口でお化けが出たんだって。こーんなに大きいの!」
「なぁにそれ、誰から聞いたの?」
「ユリアが言ってた、でもあのクソ野郎どもがね」
「こーら、村の男の子って言いなさい」
「村の野郎どもがね、お化けなんかいないやーいって、嘘つきユリアってユリアことバカにしてね……だからあたしが見つけて、とっちめてやるんだ!」
 豪傑と名高い母親の口調が移ってしまったセシリアは、少々口が悪かった。
「あっはは、いいぞいいぞ、やれやれー!」
「お母さん! もう、とっちめたら証拠にならないじゃん……」
「いーの!」
 ぼそっと横やりを入れてくる兄にぷんぷん吠える。
「それにあいつら、あたしの目だって馬鹿にしてきたんだよっ、フキツの色だーって。ちょっと珍しい色かもだけどさっ」
 そう、男共はセシリアに負けん気じゃ敵わないからって、酷いことを言ってくるのだ。父親が、『ご先祖からたまわった、素敵な色なんだよ』と毎日のように褒めてくれるこの瞳を。
 このままじゃ、自分の目が嫌いになりそうだ。
「だから目に物みせてやるんだ!」
「わかった、わかったわ。でもねぇ、邪魔はしちゃダメよ。せっかく洗ってくれてたのに。セシリアのお洋服もあるのよ?」
「だってぇ……」
「あら、ちゃんと謝れない子はどこの子かしら?」
 姉はセシリアの勇敢さを褒めてくれる時もあるが、危険なことや、人様に迷惑がかかるようなことをすればしっかりと注意してくる。
 ここ数週間は村にいるが、両親は医者を生業として各地を飛び回っているので、家にいない日も少なくない。そんなセシリアにとって、面倒を見てくれるアイリーンは母親代わりでもあった。
 そんな姉に鼻をつん、と突かれたので、セシリアは素直に兄に謝った。
「うん、ごめんねお兄ちゃん」
「……まあ、わかればいいよ」
「じゃあお化け退治にいこう?」
「わかってないな!? イヤだよ、なんでわざわざそういうとこに行こうとするんだよっ、ほら見てよ、話を聞いてるだけで膝が震えてきたよ! ガクガクだよっ」
「お兄ちゃんのよわむし」
「なんだよ、セシリアだって雷苦手だろ!」
「あんなの、もうへっちゃらだもん!」
「もう、あなたたちったら」
 くすくすと、アイリーンが鈴の音を転がすように笑った。川底の石に引っかかっていた洗濯物を籠に戻し、ひょいっと抱え上げた母は、わっはっはと豪快に笑った。
「じゃあ、行くんだったらこれを持っていきなさい」
 アイリーンからハンカチを手渡され、「うん!」と笑顔でポケットにしまう。「姉さん!?」というサミュエルの悲痛な声などすっかり無視し、セシリアは兄の腕をがしっと掴んで猛ダッシュした。
「うわっ、もー……」
 こうなったセシリアはしつこいとわかっているので、兄はもはやされるがままだ。兄をずるずる引きずって走っていると、丁度診察を終えて帰ってきた父親とばったり遭遇した。
「お父さーん!」
「おおセシリア、サミー、いい子にしてたか?」
「うん! はい、お父さんのパンツあげる!」
「お、おお、ありがとう……?」
 すれ違いざま、兄がセシリアから奪い返し、ポケットに突っ込んでいたものを父親に託す。
「どこかに行くのか?」
「あのね、お兄ちゃんと森にいってお化けボコボコにしてくるの!」
「はは、そうか。いつも言っているが、入るのは入口までだからな? 約束だぞ?」
「うん」
「よぅし。じゃあ頼んだぞ、サミー」
「もー、ホント行きたくないんだけど!」
「サミュエル、がんばれよー! セシリア、今日の晩御飯鹿肉だからな」
「暗くなる前に帰ってくるのよ」
「みんなの薄情者ー!」
 あの頃のセシリアは、わからなかった。当時、兄は十四歳でセシリアは七歳だった。七つも年下の少女の腕など、十代の少年ならば簡単に振り解けただろう。それでも、引きずられている体でセシリアの好きにさせてくれていた兄が、どれほどセシリアを可愛がってくれていたか。
「はぁーい、いってきまーす!」
 おう、と軽く手を上げてくれる母と、ひらひらと小さく手を振る物腰柔らかな姉。眼鏡の奥に、慈愛に満ちた柔らかな光を携えて、走っていくセシリアと兄を温かく見送ってくれる父。
 そんな三人にぶんぶんと手を振り返して、セシリアは兄を引き連れて駆け出した。
「セシリア、もっとゆっくり走って……危ないよ!」
 時折小石に足をすくわれて、転びそうになる体を兄に支えられる。
「お兄ちゃん、はやくはやく!」
「も~、しょうがないなぁ」
 次第に楽しくなってきたのか、兄も走る速度を上げた。
 さんさんとした太陽の光が照り付ける、青い空の下。何度も歩いたこの小道。草と土を小さな足で跳ね除けて、華奢な体で風を切って、駆ける、駆ける。
 道中には珍しい花がいっぱい咲いていた。薬草として使えるものを見つけたら、ポケットいっぱいに詰め込んで持ち帰ろう。
 えらいなセシリア、流石私の娘だって、きっと母が褒めてくれるだろうから。
 そうだ、あそこの野花はハンカチに丁寧にくるんで、姉へのお土産にしよう。「まぁ」と目を輝かせた姉が、綺麗ねと微笑んで小さな花瓶に生けてくれるだろうから。
 あとはみんなで夕飯の準備をして、家族みんなで食卓を囲もう。
 量が足りなくてお腹が鳴ったら、きっと兄が、「しょうがないなぁ」なんてぶつくさ言いながら、肉を半分こしてくれる。口の端についた食べかすも取ってくれる。
 そうしてご飯をお腹いっぱい食べたら、お風呂に入ろう。濡れた髪はそのままでいい。父が、「ほらおいで、風邪をひくぞ」と、タオルでしっかり拭いて乾かしてくれるから。
 そうだ、寝る前には星を見よう。強請れば母が、高く高く肩車をしてくれるはずだから。そして、星の名前を一つ一つ教えてくれるのだ。母のおかげで、セシリアは星座をほとんど言えるようになった。
 湯冷めしてしまったら、あたたかくてふかふかのベッドに飛び込もう。今日も沢山遊んだし、姉がセシリアの大好きな絵本を読み聞かせてくれる。きっと、すぐに眠くなる。
 もしも雷が鳴ってなかなか寝付けなくなっても、問題はない。
 最後は父が、ぽんぽんとお腹を撫でながら子守唄を唄ってくれるだろうから。
 そして次の日、窓の外から差し込む明るい朝日にぱっと目が覚め、飛び起きるのだ。
 朝ごはんは、あたたかいスープとチーズと焦げたパン。セシリアはパンの端っこの硬い部分が好きだ。そんな優しい朝の匂いにリビングルームへ走っていけば、家族みんなが揃ってセシリアを迎えてくれる。
 おはようセシリア、よく眠れたか? と、新聞を読んでいる父が笑う。
 なんだ、相変わらず寝坊助だなぁと、コーヒーを啜っている母が笑う。
 あら、寝ぐせがついてるわよ? こっちにおいでと、櫛を用意してくれた姉が笑う。
 はやく座りなよ、ご飯覚めちゃうよ、と小言をいいながら、兄が椅子を引いて待っていてくれる。
 そして明日は……またお化け退治に行こう。あ、でも明日は朝からずっと雨か。雷は怖いから、雨が止む真夜中にしよう。
 流石にお父さんとお母さんには怒られちゃうから、こっそりと。
 そうだ、リスから分捕ったクルミが箱いっぱいに溜まったから、昼間はお姉ちゃんとクルミのクッキーを作って、それを夜食として持っていこう。
 セシリアはベッドに横たわりながら、上掛けを口元まで持ってきてくふふっと笑った。これからもずっとずっと、家族みんなでの幸せな日々が続くのだ。
 セシリアの世界は優しく続いていくはずだった。
 けれども数ヶ月後、平穏と安らぎに満ちていた世界は終わりを迎えた。
 赤くて熱い血と炎に、包まれながら。


 これはセシリアが幸せだったころの話だ。

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先行配信先 (2024/05/24〜)
配信先 (2024/06/07〜)