寝室の扉が、別の世界と繋がってしまったらしい。
クリーム色の壁紙が貼られていたはずの壁は、冷たそうな灰色の石と、それを覆い隠すほどの棚に。
ベッドが置かれていたはずの床は、足の踏み場もないほどに散らかる大量の紙に。
自宅の寝室だと思って足を踏み入れた部屋が、全く見覚えのない景色に変わっているのだ。
フローリングワイパーを落としそうになりながら周囲を見渡していた私はやがて、一人の男性を見つけた。
長い前髪に覆われた涼やかな顔立ちに、すらりとしなやかな体躯。
濃紺の髪の隙間から、紫とも灰色とも言えない色の瞳が覗いている。
その不思議な色の瞳と目が合った瞬間、私の心臓がドッと音を立てて鳴った。
「――あなたは?」
「え、あ、えっと」
薄い唇から発せられる低い声に、私の心臓はますます騒がしくなる。
「どうしてここに?」
「それは」
私にもさっぱり分からない。
自宅の掃除をしなければと腕まくりして、リビング、廊下、次は寝室……と扉を開けたら、こうなっていたのだ。
日本らしからぬ内装に、日本人らしからぬ容姿と服装の男性を前にして、「異世界転移」という言葉が頭を掠める。
けれど今の私には、何もかもが些事にすぎない。
なぜなら――
「かっこいい……」
「……は?」
男性と目が合った瞬間、私は彼に心を奪われていたのだから。
彼は一体誰なんだろう。名前は。年齢は。職業は。誕生日は。好きな食べ物は。好きな色は。好きな女性のタイプは。
考えるべきことは他にもあるはずなのに、頭は目の前の男性のことばかりだ。
次々と湧き上がる激情は生まれて初めてのもので、いろいろと整理が追いつかない。
私はフローリングワイパーの持ち手をぎゅっと握りしめた。
「な、名前を! 私は伊藤レイと申しますが、あなたの名前を教えていただけませんか?」
「……アーク、と」
「アークさん」
教えてもらったばかりの名前を口にした瞬間、私は理解した。
唐突に胸を占める、この感情の名を。
「私、アークさんが好きです!」
「な……っ、にを、言って」
「どうしよう、好き。すごく好き! 信じられないかもしれないけど、自分でも信じられないけど、一目惚れです!」
私はどちらかと言えば、頭で考えてから話すタイプだと思う。
そして、自分から人を好きになったことはない。
なのに今は、初めての気持ちに突き動かされ、ほとばしる感情を勢いのまま言葉に乗せていた。
自分でも信じられない。でも、止められない――と思っていたら。
「っ、僕は絶対に、あなたのことなど好きにはならない……!」
初めての一目惚れに浮かれていた私は、速攻で失恋したのだった。
*
私こと伊藤レイは昔から、料理や掃除をしながら家でくつろぐことが好きだった。
就職のために実家を出る時も、在宅時間を充実させたくて家賃の安いエリアに広めの部屋を借りた。
リビングの他に寝室があって、二口コンロと独立洗面台はもちろん、バストイレ別でウォークインクローゼットつき。周りは静かで徒歩圏内にスーパーやコンビニがある。
通勤時間の長さを気にしないなら完璧な、私だけのお城。こだわりのくつろぎ空間になるはずだったのに――入社した会社はブラックだった。
入社して以来仕事に追われ、料理も掃除も満足にできなかった。散らかっていく一方の部屋へ寝に帰るだけの生活が数年続いて、とうとう私は仕事を辞めた。
心と時間の余裕を手に入れて、どこか旅行でも行きたいな、なんて考えながら掃除をしていたら、うちの寝室が異世界になっていたのだ。
昨日まで使っていたベッドを探さなければいけないはずなのに、アークさんから視線を外せない。長い前髪に覆われていて顔はほとんど見えないけれど、雰囲気か何かが、もう、とにかく好き!
「イトーレイ……と言いましたか」
私が失恋して数分の後、気を取り直したように咳払いするアークさんが言った。
「レイです。伊藤は名字、名前がレイなので、レイと呼んでください」
「では……レイ。あなたはなぜ仮眠室から出てきたのです」
「仮眠室?」
私は背後を振り返った。
開けっぱなしの扉の向こうに見える景色は、我が家の廊下で間違いない。
ということは、本当ならここは私の寝室であるはずなのに、なぜか別の場所に繋がっているわけだ。
もちろん理屈は私にも分からないので、直接見てもらうことにした。
「ここ、少し見てもらってもいいでしょうか」
「何です?」
アークさんは胡乱げな雰囲気を隠そうともせず、それでも私が示すまま、半開きの扉に近寄ってくる。
一歩が大きくて、数メートルはあった私たちの距離が一気に縮んだ。
隣に来たアークさんは背が高い。
それに何だかいい匂いがして、振られたばかりだというのに私の心臓はドキドキと騒がしい。
「これは……」
扉の向こうを覗いたアークさんはそれだけ言うと、勢いよく扉を閉めてしまった。
ぴったり閉じた扉に、少々不安を覚える。
これ、次に開けた時も自宅に繋がっているの? 私、家に帰れるよね?
「あなた、どこから来たんですか? この辺りではなさそうですが」
「ええと、日本という国です」
「……知らない地名ですね。いいですか、この扉のことは絶対、誰にも」
その時、アークさんの言葉を、誰かの声が遮った。
「おやおや、アーク君。何だねその女は」
声のした方を見てみると、そこにはニンジンみたいな男がいた。
髪と同じ鮮やかなニンジン色の口ひげを撫でながら、緑色の目を怪訝そうに細めて私を見たかと思えば、口元をニヤニヤと歪め出す。
何だか感じが悪いので、心の中でニンジンマンと呼ぶことにした。
「ああ、なんだ。職場に女を連れ込んでいたのか」
「まさか」
「違うのか? ふむ、さすがのお前もこんな女は好みではないと見た。しかしながら、そんなことを言ってたらお前など誰にも相手にされないぞ。ほどほどのところで手を打っておきたまえ」
ニンジンマンは私のてっぺんからつま先までを見て値踏みしただけに留まらず、アークさんのことまで馬鹿にしている。
初対面での言われように絶句する私のすぐ側で、アークさんは「お言葉ですが」と冷静に言った。
「彼女はそういったものではありません」
「ほう? となると……なんだお前、掃除婦か」
ニンジンマンの視線は、私が持っているフローリングワイパーに向いている。
たっぷりの埃が絡まったシートを見て、これ見よがしに眉をひそめた。
「物置小屋とはいえ掃除婦共に掃除の必要性を思い出してもらえて何よりだ。しっかりやりたまえよ。アーク君、後はよろしく頼む」
それだけ言って、ニンジンマンは部屋から出て行った。
私の家に通じる扉ではなく、私から見て左の奥にある扉から。
現れたと思ったらあっという間に消えてしまった。一体あの人は何をしに来たんだろう。
ニンジンマンの高らかな靴音が消えた頃、私はアークさんに向き直った。
「掃除、します」
「は?」
「してもいいのでしたら、したいです。失礼ながら、掃除のしがいがありそうなので」
私たちのいるこの部屋は、お世辞にも綺麗とは言い難い。
床中に紙が散乱しているし、棚にも無造作に書類が詰め込まれ、埃が積もっている。
私はニンジンマンの言う掃除婦ではないけれど、掃除は好きだ。
大量に散らかる紙を整理して、埃を払って床を磨いたら、この部屋はどんなに見違えるだろうかと思う。
もちろん、不純な動機も否定できないけれど。