「カリン嬢、少しいいかな」
魔法士の塔に向かう途中。先日の遠征の後処理のせいか人の気配がまばらな回廊で声をかけられて、カリンは足を止めた。
「ええと、確か……ロベルト卿?」
振り向くとそこには、近衛騎士のロベルト・エル=ネリウスが立っていた。
面した中庭からの日差しを受けて金髪が輝いている。宝石のような青い瞳と美貌をもってして「青薔薇の騎士」とも言わしめる美しい男は、呼び止めたカリンに言った。
「カリン嬢。今夜、君と共に空の星を眺めたいんだ……どうかな?」
途端、元々表情の乏しいカリンから残された僅かな表情も失われた。
「あ、この言い回しだとカリン嬢には伝わらないね。意味は」
「知ってます」
貴族特有の上品な言い回しをあけすけな庶民向けに翻訳される前に、カリンは相手の言葉を遮った。白昼堂々、明るい日の差す回廊のど真ん中、みなまで言うことではない。
「あなたと共に夜の星を眺めたい」とは、貴族の間で夜の誘いとして使われる言葉だ。
何がどうしてそう言われるようになったのか知りたくもないが、男女どちらが使っても問題ない慣用句であるということは知っている。
要は、ロベルトはカリンを性交に誘っている。
「知ってますが、お断りします。今後は業務上必要なとき以外、話しかけないでください」
カリンが一気に言うと、ロベルトは目を見張った。
平民であるカリンが貴族特有の言い回しの意味を知っている、その意味に驚いたか。それとも、青薔薇の騎士などと気障ったらしい名で呼ばれる男が、平民ごときに断られたことに驚いたか。
いずれにしても、カリンの知ったことではない。
「それでは」
ロベルトの返事を待たず雑に会釈して、カリンはその場を立ち去った。
いささか乱暴に歩きながら、カリンは自身が所属する第九研究室まで戻る。
(平民にまで手を出そうとするなんて……噂以上に節操なしなの?)
重要拠点の守護者エル=ネリウス辺境伯の次男であり、第四王子の近衛騎士であるロベルトは、社交界において非常に有名で人気が高い。そういったことに疎いカリンの耳にまでその噂が届くほどだ。
真っ直ぐに伸びた髪は誰もが羨む黄金色。形の良い瞳は透き通った碧玉の色。見栄えがして顔立ちも抜群に良い上に、あの第四王子の近衛騎士である。
第四王子と言えば、自身が強すぎて護衛のことを護衛してしまうほどらしい。半端な腕前では務められないため、第四王子の近衛は現在ロベルトを含めたった二人しかいない。権力争いとは無縁ながらある種の名誉職扱いで、一目置かれる存在だ。
力のある高位貴族の生まれで王族からの覚えもめでたい。他の令息が嫉妬もできないほど令嬢達の視線を思うがままにしているそうだ。実際のところ、付き合っている相手は複数名いると聞く。
しかし平民にまで手を出すなど火遊び以外の何物でもない。カリンは貴族の気まぐれに巻き込まれるのはまっぴらごめんだった。
(接点なんてないのに、どうしてわたしなんかに)
カリンがロベルトを初めて見たのは、つい先日の遠征のこと。
第四王子の護衛として遠征に同行していたのがロベルトだったのだ。お互い、それが初対面だったはず。
戦闘中、魔物の攻撃をカリンが食い止めた。後ろにいる第四王子の無事を確かめるために振り返ったら、そこにロベルトがいたのだ。
あれが噂に聞く青薔薇の騎士かと思ったが、それだけだ。彼は王子の護衛なので、王子を見ようと思ったら一緒に視界に入ってくるのだから仕方ない。
剣を構えていたロベルトと、堂々と仁王立ちしている王子の無事を確認した後は、カリンも戦闘に戻った。なので、たったの一言も言葉を交わしていない。
思い当たる接点と言えばそれだけなのに、どうしてロベルトがカリンに声をかけてきたのか。
苔のような濃い緑のくせ毛に、枯れ草色の目。どれも実際に人から言われた例えだ。否定はできない、わりと的確な表現だと思っている。しかも感情が表に出にくいので、愛想がないと言われることも多い。
そんな華やかさのかけらもないカリンが、青薔薇と例えられるロベルトに目をつけられる理由があるとすれば。
(立場の弱い平民で、目立たなくて、後腐れもないから。それか……)
さらしで押さえつけている、大きいばかりの胸が目的か。
明日からはもう少しきつく巻こうと心に誓った。この胸のせいで嫌な思いをしたことはあっても、いい思いをしたことなど一度もない。
(まぁ、もう話しかけてはこないでしょう。ああいう貴族の人達は自尊心が強いから。逆恨みされないといいけど)
しかしカリンの予想を裏切って、ロベルトは次の日もまた、カリンの目の前に現れたのだった。
「やあ、カリン嬢。良い午後だね」
驚くべきか呆れるべきか悩むカリンに向かって、ロベルトはひょいと片手を上げ気軽に話しかけてくる。
業務上必要なとき以外は話しかけるなと昨日言ったばかりなのに、忘れているのだろうか。もしくは聞こえていなかったのか。少なくとも、逆恨みしている様子ではない。
「…………」
まるっきり無視してしまいたかったが、相手の身分や役職を考えるとそうもできない。カリンはロベルトに軽く会釈だけして、その場を通り過ぎようとした。
「待ってくれ! 昨日はすまなかった! 君に対して非常に失礼なことを言った!」
横切るカリンの背に向けて謝罪の言葉がかけられる。貴族が平民に向かって謝るとは珍しい。思わずカリンの足が止まった。
「わたしに謝罪などけっこうです」
「それだけじゃない。今日は業務上の用事があって来たんだ」
どうやら昨日の話をきちんと覚えていたし、聞こえてもいたらしい。逆を言えば、業務上の理由があれば話しかけてもいいと言ったようなものだった。
カリンはやや後悔しながら、仕方なくロベルトに向き直る。
「……何でしょうか」
「ええと、そうだな……その」
きちんと足を止めて顔を合わせると、ロベルトはあからさまにホッと表情を緩めた。
しかし、業務上の用事があると言ったわりになかなか用件を言おうとしない。
ホッとした表情が徐々に崩れ、今は落ち着かないように視線をさまよわせている。顔が少々赤いようにも思えた。
カリンは回廊から空を見上げた。
今日は天気がいい。しかも、立ち止まった場所は日陰ではなく、直射日光が当たる日向である。日差しが強すぎて具合が悪くなるのもよくある話だ。ロベルトもそうなのかもしれない。
「ロベルト卿。もしかして、体調がよろしくないのでは?」
「え?」
「お急ぎの用でなければ、後日でも。もしくは別の方を寄越していただくとか、書面でお伝えいただくとか」
「いや、体調はいいよ。心配してくれてありがとう」
先ほどとは打って変わってにこにこし始めたロベルトを、やはりカリンは心配した。自覚症状のない体調不良は危険だ。
純粋に心配し始めるカリンをよそに、ロベルトはようやく意を決したふうに口を開いた。
「実は、先日の遠征特訓でのことなんだけど」
「はい」
「君の戦い方が、なんというか……とても興味深かったんだ」
「そうですか」
カリンは仲間の剣士や魔法士を後方から援護する補助魔法士だ。身体強化や重量操作、結界を得意としている。基本的な攻撃魔法も使えるが、その威力は攻撃系魔法士の比にならないほど弱い。
そんなカリンが宮廷魔法士となる前、魔法学校時代に猛特訓したのが、魔法と魔法を組み合わせることだった。
威力の弱い攻撃魔法同士を組み合わせて別の結果を生み出したり、威力を上げたりすることができる。自らに身体強化や重量操作の魔法をかけて、杖代わりの剣を振るうこともあった。
先日の遠征でも身体強化と重力操作、加えて刀身に雷の力をまとわせて、後方まで突進してきた魔物に重い一撃を食らわせ失神させた。
同時に複数の魔法を展開すると魔力操作が複雑になるので、このような戦い方をする魔法士は少ない。非魔法職には特に珍しく見えただろう。
「そこで、君に相談があって」
「何でしょうか」
「私の主が遠征によく同行しているのは知っているだろう?」
「はい」
ロベルトの主である第四王子は日頃、兵士達に混ざって訓練に参加し、遠征という遠征にも可能な限り同行していると聞く。
カリンは先日の遠征で初めて第四王子と一緒になった。歳はロベルトと同じか少し若いくらいだったはずだが、堂々とした風格で、後方まで突進してくる魔物にも一切驚いた様子のない、肝の座った人物だった。
そんなことを思い出しているカリンに向かって、ロベルトは話を続けた。
「私も遠征に行く機会が多い」
「はい」
「だから、これからも君と一緒になることがあると思うんだ」
「はい」
「殿下は本来、護衛不要なほどお強い」
「はい」
「しかし、遠征先では何があるか分からない」
「はい」
「いざという時のためにも、私ももっと新しい戦い方を考えるべきじゃないかと、君を見て……」
「恐れ入りますが、何をおっしゃりたいのか分かりかねます」
「……っ」
なかなか終わりを見せない会話に、カリンがぴしゃりと言ってしまった。言葉を詰まらせた後、どことなくしょんぼりしたロベルトを見て、カリンにほんの少しの罪悪感が芽生えた。
しかしこの調子で話を聞いていては今日の仕事が進まない。
「すまない。私が何を言いたいかというと……つまり、その……特訓。そう、特訓したいんだ。君と、二人で」
「特訓したい? わたしと二人で?」
初めて聞く慣用句に、カリンは首を傾げた。
「あなたと共に夜の星を眺めたい」がベッドへの誘いなら、「あなたと二人で特訓したい」は何の誘いなのだろう。
「……カリン嬢。この言葉に他意はない。どうかそのまま受け取ってくれないだろうか」
「あ、そうでしたか」
またてっきり、貴族特有の上品な言い回しかと思っていた。ロベルトは仕切り直すように咳払いをして話を続ける。
「君も私も後衛だろう? だからいざという時、二人で何か連携が取れたらと思ったんだ。いや、必ずしも一緒になるわけじゃないのは分かっているんだけど、君のような戦い方の魔法士は他に見たことがないから。だから、君にしか声をかけてないんだけど……どうかな?」
ロベルトは、今度はやたらと饒舌になった。やましいところのある人間は極端に無口になるか、饒舌になるかのどちらかだ。
カリンはロベルトが何かボロを出さないかと思って、じっと青い目を見つめた。
「本当に他意はないから! もちろん、君にとっても悪い話じゃないと思うよ」
「そうでしょうか?」
「もちろんだよ」
何と言っても青薔薇の騎士と名高いロベルトが相手なのだ。おそらく周りが黙ってはいないだろうし、平民の女と一緒にいることでロベルトに悪影響を与える可能性だってある。
とはいえ、カリンは近衛騎士との――要は剣士との特訓に興味を持った。
今のやり方と言えば、カリンのような補助魔法士が身体強化を付与する、結界を張る。そうしたら剣士は敵に突っ込み剣を振るう。魔法士は剣士の後ろから各々攻撃魔法を放つ。それだけだ。
もちろん、敵に突っ込むにも魔法を放つにも、きちんと作戦は立てているけれど。
しかしそうではなくて、カリンが複数の魔法を組み合わせるように、剣士と魔法士の力も組み合わせることができたら。
作戦の幅は広がるだろうし、もっと効率的に、短時間で決着がつけられるかもしれない。危険な魔物相手に戦闘時間が短くなるだけでも、治癒魔法が間に合わなくて、ということが減る。
好奇心が揺れ始めるカリンに、ロベルトがとどめを刺してきた。
「もし協力してもらえるなら、私から何か、君に贈り物を。宝石とか甘いものは好きかな」
悩んでいたカリンは、この一言に頷いた。カリンは甘いものに目がなかった。