朝起きて、鏡の前に座る。
そしてピチカは真っ直ぐに伸びた淡い金髪に囲まれた自分の顔をじっと見た。
「ううーん……」
難しい顔をして考え込む。両親や兄に言わせるとピチカは「天使のよう!」な顔立ちらしいが、家族の感覚は愛ゆえに狂っているのであまり信じられない。
かと言って自分の事を醜いとは思わないが、まだ子どもっぽさを残す顔立ちはちょっと気に入らない。もっと大人っぽくなりたいのだ。
「ピチカ様、今日はどのような髪型にされます?」
後ろに立っていた侍女のレイラが声をかけてきたので、ピチカはすぐにこう答えた。
「大人っぽい感じでお願い」
「大人っぽい感じですか。ピチカ様には可愛い髪型が似合うと思いますが……」
「レイラ、私ももう十七歳よ。それに結婚もして人妻になった。だからもう『可愛い』は卒業するの」
ピチカはぐっと拳を握って言う。
ピチカがこの屋敷で暮らし始めたのは、ほんの一週間前の事だ。一週間前に結婚し、侯爵令嬢から公爵夫人になったばかり。左手の薬指でも真新しい結婚指輪が存在を主張している。
だけど鏡に映る少女はまだどこか幼くて、「夫人」と呼ぶには威厳が足りない。それに今のままでは年上の夫と釣り合わない気がするのだ。
「なるべく要望通りに頑張ります」
「お願いね、レイラ」
レイラはピチカが実家から連れてきた信頼できる侍女なので、安心して髪のセットを任せた。
そして彼女はその信頼に応えて、子どもっぽいピチカをなんとか大人っぽくしてくれた。髪は下ろしたままゆるく巻いて片側に流し、編み込みを作って髪飾りをつける。
「前髪も横に流してみました」
「ありがとう。ちょっと賢そうに見えるわ」
「賢そう……うーん、そうですね」
「え? な、何? その間は……」
髪型だけでは隠しきれない何かが漏れてしまっているのだろうか、と恐る恐る尋ねると、レイラはふふふと笑って言う。
「冗談です。ピチカ様はすぐに真に受けられるので、からかってしまいました」
「それならいいけど」
「いいんですね」
レイラが静かに突っ込む。確かに侍女にからかわれる主人というのはいいのかどうか分からないけれど、お馬鹿な感じが滲み出ているのではないと分かって安心した。
ドレスも艶やかな紫色のものを選んで着れば、いつもより随分大人の女性になった気がする。もうピンクのふりふりドレスは卒業だ。
「どう? レイラ?」
「いいと思います。多少のちぐはぐ感は否めませんが……。振る舞いも淑女らしくなされば、いつもより大人っぽく見えるかと」
「分かったわ。淑女らしくね」
レイラはこういう時、本当の事を言ってくれるので助かる。ピチカは社交辞令の褒め言葉も真に受けてしまって舞い上がる性格なので、真実を伝えてくれる存在はありがたい。
「それでは食堂に参りましょうか。もう朝食の準備も整っているはずです」
「ええ」
食堂とは、ピチカと夫が食事をするために使っている部屋の事だ。ピチカの寝室よりも広い部屋の真ん中に、大きな長方形のテーブルが置いてある。
レイラと一緒にピチカはそわそわしながら食堂へ向かった。朝、夫と顔を合わせるのは緊張するのだ。今は別々の寝室で寝ていて、まだ夫婦という実感がないせいかもしれない。
「き、緊張する! 髪型、大丈夫? 崩れてない?」
「そんなにすぐには崩れませんよ。大丈夫です」
廊下で立ち止まってあわあわしているピチカの背中を、レイラがそっと押した。ピチカは前髪を手で整えながら再び前に進む。
そして食堂へ着くと、緊張している事を悟られないようにすました顔を作ってから中に入った。
夫――ヴィンセントはもうすでに席に着いてピチカを待っていた。
「おっ……おはようございます、ヴィンセント様」
最初の「お」で声が裏返ってしまったが、なんとか朝の挨拶をする。恥ずかしくて、入ってきたばかりだというのに今すぐ部屋を出て行きたくなった。しかしすぐ背後にレイラが立っているので戻れない。
「おはよう、ピチカ」
ヴィンセントはピチカの失敗に突っ込む事も笑う事もなく、なんの反応も見せずに落ち着いた低い声で言った。
黒色が好きなのか、ヴィンセントはいつも大体黒尽くめの格好をしている。髪の色も漆黒で、長さは肩甲骨の辺りまである。緩く波打つつややかな髪を一つに結んで、胸の方に垂らしているのだ。
目の色は海を閉じ込めたかのような深い蒼色だが、黒い色の中では瞳だけ目立って見える。
ヴィンセントはまだ二十五歳だが、年齢以上に落ち着いていて、ピチカは最初、彼の年齢を三十過ぎだと勘違いしていたくらいだ。
けれど老けているというわけではなく、冷静で色気があって魅力的なのだ。こんな素敵な人が夫だなんてと、ピチカは毎日ヴィンセントを見るたび照れている。
ピチカはヴィンセントにほほ笑みかけてから食卓に着いたが、ヴィンセントはほんの少しも笑顔を作る事はなかった。
しかしそれがどうやら彼の普通らしい。表情が乏しく、感情が読みにくいのが。無愛想な態度に最初は傷ついていたピチカだが、ここ数日で慣れてきた。
そうしてドキドキと胸を高鳴らせながら、ピチカは隣に座っているヴィンセントを盗み見る。
まつげが長く、鼻が高い。それに肌は白い陶器のように綺麗だ。本人は普通にしているだけなのかもしれないが色っぽい憂い顔に見えるし、あと香水か何かのいい匂いがする。総合すると格好良い。
ヴィンセントを見ていると、ピチカはいつも旗に『ヴィンセント様ラブ!』と刺繍をして振り回したい気持ちになる。
彼は確かに無愛想なところはあるのだが、子どもっぽく単純な自分にはない妖艶な魅力があったり、どこか陰があったりして、そこにすごく憧れる。
ヴィンセントと結婚できて、ピチカはとても幸せだった。
しかし、ヴィンセントはきっとそこまで思っていない。ピチカたちはお互いに惹かれ合って恋愛をし、結婚に至ったわけではないから。
ヴィンセントは年齢的に周りに結婚を急かされていたようで、本人もそろそろと思っていたところに、ピチカの父が結婚話を持ちかけたのだ。だからヴィンセントはピチカを気に入ったのではなく、たまたま結婚を考えていたところにいい話が来たというだけ。
けれどいつかヴィンセントに愛されたいし、そしてピチカもヴィンセントの事をもっとよく知りたいと思う。
でも、はたしてそんな日は来るのだろうか?
「今日はいつもと雰囲気が違うな」
「え?」
一人で色々考えていると、いきなりヴィンセントに話しかけられて動揺した。お喋りでないヴィンセントがこうやって何気ない話を振ってくるのは珍しい。
「ええっと、あの……」
何か言葉を返さなければと思うのに、ヴィンセントがこちらをじっと見ているので、ピチカは恥ずかしくて考えがまとまらなくなる。
気のせいだろうか、周りにいるレイラを含めた侍女たちや執事、給仕たちから「頑張れ!」という声援が聞こえてくるようだ。
よっぽど分かりやすいらしく、ピチカがヴィンセントを慕っている事は屋敷の人間にもすでに気づかれているのである。
顔を真っ赤にしつつ、ピチカはなんとか答えた。
「はい、そうなんです。気分を変えてみようと思って……」
緊張して蚊の鳴くような囁き声しか出ない。ヴィンセントに釣り合うように大人っぽくなりたいから、という本当の事は言えなかった。
「そうか」
ヴィンセントは静かにそう言って食事を始めた。ピチカも慌ててフォークを持つ。
(何か会話を……。今の話を広げて楽しい会話を……)
スクランブルエッグを食べながらぐるぐる考える。せっかくヴィンセントから話しかけてくれたのだ。もっと話が広がるような返しをすればよかったと後悔する。
しかし結局、食事が終わってもあれ以上話を膨らませる事はできなかったし、他の話題も見つからなかった。
ヴィンセントは仕事に行く準備をするためにさっさと席を立ってしまう。
ピチカはため息をつき、ヴィンセントの後に続いて立ち上がった。ヴィンセントの興味を掻き立てられるような話題はなかなか思いつかない。
彼は若くして父親の跡を継ぎ、公爵としての仕事を立派にこなしているし、『稀代の天才』と呼ばれるほど魔術の才能もあり、造詣も深い。
そんなふうに才能もあって頭もいいヴィンセント相手に、一体何を話せばいいのだろうかといつも悩む。
別に他愛ない天気の話や、ピチカが好きなお菓子の話でもすればいいのかもしれないが、ヴィンセントにつまらない奴だとか子どもっぽい奴だと思われたくなくて、いつも言葉を飲み込んでしまうのだ。
(好みも違うし、共通の趣味もないし、盛り上がる話題を探すのは難しいわ。魔術なら私も勉強したし使えるけど、天才相手に話を弾ませる自信はないし……)
ううんと頭を悩ませながら、仕事に向かうヴィンセントを見送るために玄関を出た。ヴィンセントは公爵として領地を治めるための仕事もしているが、王国の魔術師団で第一隊隊長という地位にもついているので、ほとんど毎日のように登城して魔術師としても仕事をしているのだ。
ヴィンセントはピチカに「行ってくる」と一言声をかけると、鞄を一つ持って馬車に乗り、城へと出発してしまった。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
ピチカは少し寂しい気持ちになりながら、門を出て行く馬車を見送る。ヴィンセントは仕事が毎日忙しいので、今日も帰ってくるのは夜中になるだろう。一緒に夕食を食べられる日は少ないが、今夜はどうだろうか。
「早く帰ってきてくださいね」
ヴィンセントはもう行ってしまったので声は届くはずもないが、ピチカはしょんぼりしながらそう呟いたのだった。
一方、夫のヴィンセントは王城に着くと自分の執務室に入った。するとほどなくして、魔術師であり、自分の補佐官でもある若い男――ノットも部屋へと入ってくる。
「おはようございます、隊長」
ノットはヴィンセントとは違って社交的な男だ。髪は茶色で容姿にもこれと言った特徴はないが、明るく常識的なので友だちも多いらしい。ちなみに欲しいと思った事がないので、ヴィンセントには友だちは一人もいない。
ノットは無表情のヴィンセントにも動じる事なく、笑って話しかけた。
「ピチカちゃんとの生活はどうですか? 相変わらず幸せそうな顔してますけど」
今のヴィンセントの顔を見て幸せそうだと感じる事ができるのは、ノットくらいのものかもしれない。
ヴィンセントはノットの方を見ると、いつも通りの無表情で――ただしノットには口角を上げて笑ったように見えた――言う。
「今朝は、朝食の時に私が話しかけたら、ピチィは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていて可愛かった。あと『おはようございます』と言おうとして、緊張したのか声が裏返っていて……どうしてあんなに次から次へと可愛い事ができるのかと思う」
「キモい!」
淡々とした口調と話の内容が噛み合っていなかったので、ノットは思わずそう本音を言ってしまった。
ヴィンセントが自分の新妻を溺愛し始めている事には気づいていたけれど、それにしても、普段は何にも興味を示さない男なだけに、結婚してこうやってのろけるなんて衝撃だ。
ノットもピチカの事は知っているが、裏のなさそうな人物だという印象を持っている。両親や周囲の人間からこれでもかと愛情を注がれて育ったらしく、歪んだところのない子だ。
そしてピチカは分かりやすく純粋な好意をヴィンセントに向けていたので、彼もそんな妻を可愛いと思い始めているのだろう。
公爵であり、天才魔術師でもあるヴィンセントの元には、その能力と権力を利用したいという下心を持った者たちが寄ってくる事が多い。少しでも油断したり、間違った相手に気を許せば命取りになる。汚い人間を嫌というほど見てきたヴィンセントからすれば、ピチカは癒やしなのかもしれない。
しかし、ヴィンセントがピチカを可愛く思う気持ちは分かるものの、ノットは顔をしかめずにはいられなかった。
「ピチカちゃんのいないところでだけピチィって呼ぶのやめてください。まじで気持ち悪いんで。夫なんですから本人の前でもそう呼べばいいのに」
「恥ずかしい」
照れる上官を見て、ノットは微妙な気持ちになった。
見ているこっちが恥ずかしい、と。