プロローグ
それはシャンデリアの光を反射して、一瞬銀色に輝いた。
(なんで?)
二月の寒さも吹き飛ばすような、きらびやかな夜会の片隅で、シャーロットは凍り付いていた。立ち尽くして、指の先すら動かせないでいた。
幻覚だろうか。ここ数日の寝不足が、脳にありえないものを見せているのだろうか。
だがしかし、見れば見るほどそれに見える。シャーロットは青い目をゆっくり瞬かせて、もう一度人の波の向こう、広間の中央をみつめた。
濃く煮出した紅茶のような色の髪に、ミステリアスな深みのある黒い目の紳士。集まった紳士淑女の中でも、ひときわ絵になる立ち姿の、背の高い美丈夫。
――が右手に持つ、銀製の懐中時計。それがどう見ても、シャーロットの記憶の中にある物と一致している、気がするのだ。
(なんでここに、あれがあるの?)
広間の片隅から凝視されているとも知らない紳士の手が、銀色に輝く文字盤の蓋を慣れた手つきで開ける。紳士は束の間、そこに視線を落とし、ゆっくり閉めて、ベストのポケットにしまう。テールコートの奥に隠される直前、再び銀色の輝きがシャーロットの目を刺した。
その際、蓋の表面に、何か装飾がされているのが見えた。
天使の彫刻のように、見えた気がした。
(……ううん、もっと近くで見なくちゃわからない。似てるだけかも)
紺色のドレスの胸元で扇子を握りしめ、意を決して一歩踏み出した、そのとき。
「シャーロットったら!」
「わっ!」
シャーロットは肩を跳ねさせ振り向いた。いつの間にか、パーティーの主催者でありこの屋敷の女主人である伯母が、顔を顰めて背後に立っていた。
「ア、アイリー伯母様……」
「なにぼんやりしてるんです、そんな壁際で! おしとやかなふりをするのは結構ですけど、それにしたってもっと広間の真ん中に出ていらっしゃい。だいたいその暗い色のドレスはどうしたんです、自慢の金髪がもったいない。今日はあなたと釣り合いそうな独身の殿方もたくさんお招きしたのに!」
小声でまくし立てられて、シャーロットは自分の置かれた状況を思い出した。
今夜は父の姉であり、ダール伯爵夫人である伯母の誕生祝の宴会に、姉と一緒に招かれたのだ。そしてこの伯母は、独身の身内に見合い相手を紹介するのが何よりも好きなのだと。
だが今のシャーロットは、伯母えりすぐりの夫候補を吟味している場合ではない。
「ほら見て、今リンディと話している方はクェイラー子爵と仰ってね」
「ね、ねえ伯母様、あの濃い赤茶の髪の紳士はなんて方?」
一転して機嫌よく振られた話を遮って、シャーロットは扇子の陰でこっそり対象人物を指差した。
伯母は姪の態度に気を悪くするでもなく、おやおやと目を瞠り、一層声を潜めた。
「さすが我が弟ライナスの娘、面食いは父親譲りですわね! 気持ちはわかりますけれど、あの方と婚約に漕ぎ着つけるのはそう簡単ではありませんことよ?」
「ちがっ……い、いいから!」
訂正する間すら惜しむと、伯母はちらと件の男の方を見てから耳打ちした。
「彼はヴィクター・ワーガス殿。ステューダー伯爵という名跡なら、あなたも聞いたことはあるでしょう? 建国期から続く、由緒正しい名家ですから」
「……ヴィクター・ワーガス」
教えられた名を脳に刻み込むように、口の中で繰り返す。伯母は、その名のありがたみに感じ入ったように頷いた。
「年は二十歳とお若いけれど、既に家督を継いでいる上、女王陛下の覚えもめでたい将来有望なお方よ。あなたが十七歳ですから、年齢はちょうどいいのだけれど、結婚相手にするには……」
シャーロットは視線をヴィクター・ワーガスに移した。当人はシャーロットとアイリーの視線には気がついていないのか、別の招待客と話し込んでいる。
「……家格の差が、ちょーっと、ね。いえ、卑下するわけではありませんけれど、なにせライナスは当代が二代目の新興男爵。あの方は、今回たまたま縁があってお呼びできた方ですし」
そう言って大げさに眉をひそめた伯母だったが、黙り込んで険しい顔をしているシャーロットの顔を覗き込むと、「でも」とにんまり笑った。
「シャーロット、あなたにその気があるなら、このわたくしがひと肌脱ぎましょう」
「えっ! あ、ちが、待っ」
「さぁ笑って! なんの、名家の伯爵と新興男爵令嬢だって、次期公爵と使用人に比べればよほど釣り合いが取れているというもの!」
その言葉に、シャーロットは一瞬息が止まった。おかげで「あらこれは不謹慎だったわね」と呟く伯母が背中を押す手から逃れるタイミングを逸した。
あれよあれよと言う間に紅茶色の髪の男のすぐ側へと運ばれる。制止する間もなく、伯母は「ごきげんよう、ステューダー伯爵、レッセ子爵」と声をかけた。
「楽しんでくださってますかしら。ああ、こちらはわたくしの姪、シャーロット・フェルマー。シャーロット、こちらがステューダー伯爵、ヴィクター・ワーガス殿よ。レッセ子爵とは以前もお会いしたわね――」
声をかけられ、ステューダー伯爵と呼ばれた男の目が伯母に向き、そしてシャーロットに向く。
視線が交差し、緊張が背中を駆け巡る。こちらに向く黒い目からは、何の感情も窺えない。
硬直していたシャーロットは、伯母に強く背中を押されて、どうにか声を絞り出した。
「……お、お初にお目にかかります。イヴリン男爵ライナス・フェルマーの三女、シャーロットと申します」
「はじめまして。フェルマー家の三姉妹は美人揃いと聞いていましたが、噂以上でいらっしゃる」
ヴィクターは、目を細めて口角を軽く上げ、慣れた仕草でシャーロットの手を取ると指先に軽く口づけた。
年に見合わない落ち着きのある声音で、歯の浮くような世辞も嫌みがない。成り上がり者の娘であるシャーロットが遭遇しがちな、値踏みする様子も、見下す気配もない、いたって真摯で丁寧な物腰。ヴィクターは容姿も含め、文句のつけようもない魅力的な紳士だった。
しかし、それに対するシャーロットの反応は、貴族の端くれとしてはまるでお粗末なものだった。
「め……滅相もない、です」
それきり、言葉が続かない。
「あらあらっ、この子ったら照れてしまって! いつもはもっと騒が、朗らかで明るい子ですのよ!」
横に立つ伯母が、肘でせっつきながら甲高い笑い声でごまかした。
しかし、シャーロットはその後も言葉少なだった。伯母とヴィクター、そして顔なじみの子爵が和やかに話していても、「はあ」とか「ええ」などと実のない相槌をうつばかり。
そうしている間も、頭の中では悶々と考え続けていたのだ。
(……なんでこの人が、あの懐中時計を持っているの?)
シャーロットはヴィクターの顔より声よりなによりも、その上着に隠されたベストのポケットが気になって仕方がなかった。
(あの人が、あげたってこと? この伯爵に?)
自分の考えを自分で否定する。あの人から、ステューダー伯爵との親交なんて聞いたことが無い。ならばとどんどん思考は加速して、やがてひとつの可能性が浮かび上がった。
――譲られたのではなく、この男が、勝手に持って来たのではないか?
(……まさか)
シャーロットが胸の内に冷たいものを感じたそのとき、アイリーが明るい声で話題を変えた。
「ところで、昨今は恋愛結婚などといって、家柄の釣り合いを多少無視してでも、当事者の希望を優先する縁組みのお話を聞く機会も増えてますわね。とてもロマンチックなことだと思いません?」
姪を格上の名家と縁付けようと意気込む伯母の言葉に、シャーロットの顔が強張る。そんなことには気づかずに、レッセ子爵が苦笑いして首を振った。
「いやぁどうでしょうな。独身時代の恋人ならともかく、現実的に結婚はロマンチックだけでは成り立ちませんからなぁ」
「あら冷たいこと! ステューダー伯爵はいかがお思い?」
伯母だけではなく、シャーロットも息をつめてヴィクターの方を見た。当人はもったいぶるように視線を泳がせて、「そうですねぇ」と見惚れるような微笑を浮かべていた。
「我々の結婚は、当人たちだけの問題とは言い切れませんからね。……ただ」
落胆した顔の伯母を前に、ヴィクターはゆったりと言葉を続けた。その右手を、テールコートの内側に何気なく滑り込ませながら。
――ちゃり、と、小さな金属音がした。
「愛するものがいる人は、ときに立場も事情も顧みなくなることがある。そういう恋も、確かにあるのでしょうね」
その言葉に、子爵が意外そうに目を丸くし、伯爵夫人は途端に目を輝かせた。
――シャーロットは、愕然として、絶句した。
「伯爵、意外とロマンチストでいらっしゃいますな」
「さっすがはヴィクター殿。ええ、ええ、そう、想い合う二人はときにどんな障害も乗り越えてしまいますものね、家の伝統ですとか格式ですとか。まぁこれはただの一例ですけれどオホホホホ」
盛り上がる子爵と伯母を涼やかにいなして、「そういえば、」と、微笑んだままのヴィクターがさらに付け加える。
「最近話題になりましたね。大貴族の嫡子と身分違いの女性との秘めた恋が。いい結末は迎えられなかったようですが」
ああ、とレッセ子爵が表情を変え、痛ましい顔で後を引き継ぐ。
「ランドニア公爵家のフェリックス殿ですな。いやいや、あくまで噂ですから、故人の名誉をいたずらに傷つけてはなりませんよ」
しんみりした様子でたしめなる子爵の横で、伯母が逸れ過ぎた話題をなんとかヴィクター自身の結婚の話に持っていこうとする。
その間、シャーロットは相変わらず、黙り込んだままだった。しかしその目には、当初の疑念や戸惑いとは違うものが灯っていた。
シャーロットは睨んでいた。扇子で顔の半分を隠しながら、目の前に立つ美貌の伯爵を、強い敵意を持って睨みつけていた。
(……取り返さなくちゃ)
名家の当主であるヴィクターは、たった今、ごく自然に恋愛結婚を肯定した。顔には笑みを浮かべて、穏やかに――ぞっとするような冷たい瞳で。
真逆だ。
シャーロットは、ヴィクターの言葉が本心からのものではないどころか、冷ややかな嫌悪に根差していると、気がついてしまった。それだけなら別に構わない。だが彼は、懐中時計を持っている。
たった今、薄っぺらい笑みで伯母を喜ばせながら取り出し、一瞥してまたすぐにテールコートの内側へ戻した銀の懐中時計を、持っている。
おそらくそれは、シャーロットの考える人物から、譲られたわけではない。
(取り返さなくちゃ。あの懐中時計を、絶対に)
見間違えようもない距離で確認した銀の懐中時計の蓋には、百合の花と天使が彫られていた。
それはランドニア公爵家の嫡子、フェリックス・ロザードの持ち物のはずだ。
一週間ほど前、自ら命を絶ったという知らせが、王都を席巻した話題の男の物の、はずだ。
――まぎれもなくシャーロット自身が、フェリックスへ贈った物のはずなのだ。
(フェリックスのことを、わたしたちのことを冷たく嗤う男の手から、絶対に!)
掲げた扇子の要が、手の中でみしりと軋んだ。