第六章 フェリックス・ロザードの従兄弟
頭の中がぼんやりしている。
テーブルに突っ伏しそうになるのを震える腕で支えながら、シャーロットはどうにか口を開いた。
「……ど……して……」
声は出た。でも喉に力は入らない。
コトリと小さな音がした。それが、銀の懐中時計がテーブルの上に置かれた音だと、一拍遅れて気がついた。
大切なそれに手を伸ばすこともできないシャーロットを、ダミアンが冷たく見下ろしている。
青百合商会。
それはかつて、シャーロットとフェリックスの間で決められた合言葉で、今はシャーロットとヴィクターのみが知っている言葉のはずだった。
(なんでそれを、この人が知ってるの?)
「知……て……」
おぼつかない問いかけでも、意図は相手に伝わっていた。ダミアンはシャーロットの体を無遠慮に抱え上げながら、もののついでのように答えた。
「フェリックスが妙な文通をしてるのも、その見慣れない懐中時計を持ってるのも知ってたよ。ちょっとあいつの身辺を探ってた時期があったからさ。……まさか、ここにきて両方とも君に結びつくとは思わなかったけど。ただのかわいらしいお嬢さんじゃなかったとは、残念」
運ばれている間も現実感に乏しかった。方向感覚ももうまともに働かない。
やがて、ガチャリという扉を押し開ける音が聞こえた。進む先は、さっきまでいた場所より薄暗い空間だ。
それからすぐに、体が浮遊感に包まれて、落下した。ぞんざいに、柔らかな場所に転がされる。
寝台だった。客間は二間続きで、多くがそうであるように奥に寝室が作られていたのだ。
身の危険。それを理解していても、頭も体も動かなかった。
(どうしよう……どうしよう……どう……)
建設的な考えは何も浮かばない。事態を打開しなくてはと思うのに、頭の中はまるで真っ白な空間で、その真ん中で肝心のシャーロットは棒立ちになって、途方に暮れているような状態だった。
ダミアンはすっかり無抵抗のシャーロットの顎を掴み、顔を自分の方に向けさせると、硬い声で詰問した。
「さて、ここからは僕の質問に答えてもらおうか。君たち、ここに何しに来たんだ? 殺人の証拠の隠滅でもしに来たのか?」
(……さつじん、しょうこ……)
ちがう、と、シャーロットの口は無意識に答えをこぼす。
「じゃあ何が目的だ?」
「……フェリックス……死……へん……」
シャーロットはろくに考えられなくなっていた。その口は本人の意思に関係なく、問われるままに、答えを深く考えもせず明け渡すことしかできない。
「なんでそれを、君たちが調べに来るんだ」
(なんで……ヴィクターは……わたしは……)
「しごと……と、こい、びと」
二つの答えを並べたせいで意味が通らなくなったシャーロットの答えに、ダミアンが「はぁ?」と苛立たしげに吐き捨てる。
「なんだよそれ。もしかして誤魔化そうとしてる? 自白剤、足りてないのか? くそ、なら強い方使うからな。……大丈夫かなあれ、併用して死なないかな」
――なにせ、あっちはベラドンナから作ってるらしいし。
シャーロットの顎を放したダミアンは、ぶつぶつと呟きながら部屋を出ていった。
(……べらどんな……)
耳に入ってきた言葉が、ひとりになったシャーロットの真っ白な頭の中で反芻される。
ベラドンナ。
(……なんだっけ)
シャーロットは重い倦怠感に従って目を閉じた。
(……ブルーベリーに似た実がなる……)
浮かんだのは、つい数日前に食べた、スパイスの香る焼き菓子。
(……あれは、結局大丈夫だったのよ……ダメだったのは、翌日のデザートスタンドの方……)
シャーロットの頭は論理的な思考を放棄して、あてのない散歩のように思い付くまま進んでいく。
ガラスの上の小さなケーキ。赤毛の男。
そして紅茶色の髪の、口の悪い男。
『今回のことは、俺の失態です。……あなたが狙われていたのは明白だったのに、みすみすとひとりで行かせてしまった』
――いいの。わたしが勝手にここに来ちゃったんだもん。ダミアンとだって、二人きりになっちゃダメだって、わかってたのに。
シャーロットは記憶の中のヴィクターに謝り返す。
相手と自分の間には濃い霧が立ち込めていて、表情はよく見えなかったが、とにかく励まさなくちゃ、と思っていた。
なぜなら、シャーロットはヴィクターがへこんでいるところを見たくないから。彼が落ち込んでいるとどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ。
『いいえ、やはりあなたをちゃんと檻に入れておくべきでした。父親がそばにいない今、飼い主は俺なのに』
――そんな、自分を責めな……。
(……は?)
檻? 飼い主?
唖然として視線を向ける先に、うっすらと見え隠れする人影。だんだんと霧が晴れてきた。見えてくる、すらりとした背格好。紅茶色の髪。黒い目。
『でも、忠告したのにおめおめと捕まってるあたり、やっぱりなんにも反省してませんよね。人の言うことを聞けない猪が家畜にならないのも、道理と言うものか』
そこで、男はシャーロットを小馬鹿にするように、笑った。
ほどなくして、寝室の扉が再び開かれる。
戻ってきたダミアンはその手に銀製の水差しと、透明の液体が入った小瓶を持っていた。
「シャーロット嬢、いったん水を飲め」
寝台の上で力なく横たわっていたシャーロットの体を起こし、その口元に直接水差しの注ぎ口をあてる。
しかし、水はうまく嚥下されず、小さく開いた口からごぼ、と溢れ出た。
「……ち、世話のやける」
忌々しげに舌打ちしたダミアンが、水差しを自分の口へ向け、流し込む。
そして、口内に水をとどまらせたまま、シャーロットの顎を掴む。自分の口を相手のそれへと近づけ――。
「だれが」
――男の顎に、ごん、と鈍い音とともにシャーロットの額がぶつかる。
その拍子に、ごぶ、とためていた水が盛大にシャーロットの顔に吐き出された。
「ごっほっ! げふっ、……なっ、」
遠慮のない一撃に、咳き込むダミアンが抗議するより、シャーロットが水差しを掴むほうが早かった。
「猪ですってーーーーっ!?」
二撃目はガゴンッ、と重い音がした。
(なんで?)
シャーロットは限界まで見開かれた自分の目を、目覚めたばかりの頭で疑った。
自分はダミアンの部屋のテーブルについて、お茶を飲みながら探りをいれていたはずである。
しかし、気がつくと部屋はカーテンの引かれた寝室に変わっていて、自分は顔を濡らして寝台の上、そして話していた相手は寝台の足元で寝ていた。男の頬には、シャーロットの記憶には無い大きなアザが痛々しく浮かび上がっている。そのそばに転がる小瓶にも見覚えがなかった。
そしてなぜか、自分の右手は見慣れない水差しを掴んでいる。
「……」
シャーロットはゆっくりと状況を把握し、そして徐々にことの成り行きを思い出し始めた。
リキュールの香る紅茶を飲み進めると、頭が朦朧としたこと。
相手が青百合商会のことを知っていたこと。
自分を寝室に運んだのが、今床で伸びている男だということ。
その先のことはよく覚えていない。ただ、水差しと自分の顔の水滴、そして相手の口元からわずかに垂れる水が無関係とは思えなかった。
「…………」
腹の底から怒りが湧き上がってくる。
しかし、考えなしに騒ぐわけにはいかない。こんな場面を誰かに見られれば、シャーロットの名誉はずたずたなのである。本来なら、すぐさまここから逃げるべきだ。
しかし、シャーロットは水差しを手放すと、顔を掛布で拭い、寝台を覆う天蓋のタッセルを外し始めた。
(……この人、すごい怪しいけど、フェリックスを殺してはいないのよね)
意識の無い男の顔を、怒りのこもった目で見下ろす。
まだ聞きたいことは、たくさんあるのだ。
「起きなさい。いつまで寝てるのよ」
シャーロットは椅子に座っている――否、座らされている、項【うな】垂【だ】れた栗色の髪の男の頬を、腹立たしさに任せて荒く叩いた。
「う……んっ?」
アザの上をはたかれたダミアンの瞼が細かに動いたと思うと、次には勢いよく見開かれる。シャーロットはよし、と頷くと、腕を組んで相手を見下ろした。
ダミアンは、自分の両手が椅子の背もたれの背後でひとくくりにされ、両足首が椅子の足に拘束されていることに気がつくと慌てふためいて声をあげた。
「な、なんだこれはっ」
「大きな声を出さないで。これ、無理やり口の中に流し込まれたら嫌でしょ」
そう言ってシャーロットは相手の鼻先に、床に落ちていた小瓶を揺らす。中の透明な液体が揺れると、思惑通り、ダミアンはさっと青ざめて口をつぐんだ。
その目が悪魔を見るようにシャーロットを見上げてきたので、つんと口を尖らせて釘を刺す。
「言っておきますけど、先に喧嘩売ってきたのはそっちですからね。こっちは穏便に話を聞きに来ただけなのに。ま、形勢逆転、今度はこっちの質問に、大人しく答えてもらいましょうか」
正直、シャーロットはどうして相手が昏倒していたのか、よく分かっていなかった。とはいえ、会話の主導権は握っておくに越したことはない。
その居丈高な態度の理由には、そもそもここまで散々不愉快な気持ちにさせられた恨みに加え、大の男を椅子に座らせて拘束するのに予想以上の労力を割かされたことへの苛立ちも含まれている。すごく重かった。
「っこの、悪女が。そもそも招待もされず、約束もしていなかったのに突然やってきた不審人物はお前の方だ、疑われるのは自分自身のせいだろ!」
「ふん、だからって顔に水までかけられるいわれはないわよ」
「それは本当におまえ自身のせいだよ!!」
「は? そんなわけないでしょ」
ほんとだよ、となおも続く抗議をシャーロットは無視した。――なんだか、少し額が痛む気もするが、そんなことに構っている暇はない。
「まず、……そうだわ。わたしのお茶に混ぜられてたお酒、あれはなに? 後から変な症状が出たりしないでしょうね?」
「……」
「教えてくれないなら、自分で調べるしかないわ。……鼻摘まんで流し込まれたら、飲み下すしかないでしょうからね?」
客間の方から持ってきてテーブルに置いていた茶色の瓶を、これ見よがしに揺らす。中のリキュールが緩く渦を巻いた。
ダミアンは苦く顔を歪ませて、唸るように白状した。
「自白剤の一種だ。かつて公爵家が政敵を招待してもてなすときに使ったって聞いてるが、死にはしないはずだ。たいてい、相手の弱みを握るために使ってたんだから」
「……死ななきゃいいって話じゃないのだけど。じゃあこっちは?」
シャーロットは床から拾い上げた小さな瓶を持って振る。今度は、よりはっきりと男の頬がひきつり、答える声は低く、小さくなった。
「それも自白剤だが……使う相手が違う。……おもに戦時中、その、捕虜だとか敵方の間者への尋問用だ」
「効果が強いってこと?」
「ベラドンナの成分が混ざってる。強いのもそうだけど、扱いが難しくて、……まぁ、つまり、そういうことだよ」
使用された後の命の保証はできないということか。シャーロットは平然とした態度を装っていたが、その背筋には冷たい汗が伝った。
黙って頷きながら見下ろしてくるシャーロットの様子に、ダミアンは焦って言葉を付け足す。
「い、言っておくが、殺すつもりだったわけじゃない。身を以て分かってるだろうけど、酒の方は、放っておけば効果は切れる。透明のそれも、戦時中は必要なかったから中和する方法も確立されてなかったらしいが、今は誤飲に備えて解毒薬もこの屋敷の至る所に常備してあるんだ」
「へぇぇ。じゃ、あなたがわたしに飲ませても、もちろんその逆も大丈夫ってわけね」
「答えてるだろうがちゃんとっ! 勘弁してくれ!」
「次の質問よ。青百合商会のことを知ったのはフェリックスの身辺を探ってたからって言ったわね? 何をかぎまわってたの? どうしてそれがわたしのことだと?」
ダミアンは言いあぐねていたが、卓上の茶色い瓶とシャーロットが持つ無色透明の小瓶を交互に見て、観念したように嘆息した。
「……死ぬ前の数ヶ月、いやもう少し前から、かな。フェリックスの様子がおかしかった。温厚で慎重な奴だったのに、突然メアリーのことで伯父上に働きかけて、揉め始めて。僕はもともとあいつのことは良く思ってなかったから、何か弱みでも掴めるかなと、探ってたんだよ。青百合商会のことはそのとき知ったんだ」
商会そのものを最初に怪しんだというよりは、頻繁にやり取りをしている割に、買い物や投資の気配がまったくなくて、引っ掛かりを覚えたのだという。
「結局あいつの生前にはわからずじまいだった〝青百合商会〟が、君のことだとわかったのはつい昨日だ。夕食のとき、あの懐中時計を持ってただろ。……一度、あいつの部屋を訪ねたとき、青百合商会の手紙と一緒にその懐中時計が机に置いてあるのを見た。フェリックスは手紙とまとめてそれを引き出しの中に入れたから、絶対関係があるんだと思ってた。なのに、それが遺品の中からいつの間にか消えてて、おかしいと思ってたんだよ」
「……な、なるほどね」
自分の迂闊さに目を泳がせながら、相手の目敏さに舌を巻いた。
時計が消えたのは公爵が女王にそれを預けたせいだが、シャーロットは言わない。ヴィクターの仕事は秘密だからだ。
「……じゃあメアリー・コートナーのことだけど、彼女、一体あの人とどういう関係にあったの? 恋人じゃないなら、あの遺書は何? なぜ二人は相次いで亡くなったの?」
その質問には、ダミアンは口を閉じた。シャーロットはその頬へガラスの小瓶の底をぐりぐり押しつけたが、男は青い顔で耐えた。
よほど言いたくないようだが、シャーロットも次期公爵を縛り上げるまでした以上、引き下がれない。
男の頬に跡を残した小瓶を一瞥し、わざと小さく、しかし二人きりの空間ではかすかに聞こえるのをわかった上で「まぁ、いざとなったらお父様のお金とヴィクターのツテでもみ消してもらうしかないわね」と呟いた。
その独り言が耳に届いたであろう男の顔色が白くなるのを横目で見ながら、シャーロットは小瓶のガラス蓋に手をかける。
「分かったっ! 言う、言うよっ! メアリーはフェリックスの恋人なんかじゃない、腹違いの妹だったんだ! フェリックスの奴は伯父上に、メアリーを公爵家の一員としてすみやかに公表してくれって直談判してたんだよ!!」