第一話 とある代筆屋の離婚後の人生
グウェン・ウェルズリーは空白である。
上流階級出身として身につけた教養も、二十代半ばという年齢からくる経験も、結婚も、夫の浮気と死も、死後離婚も、全ては代筆屋として手紙の言葉を引き出すための窓に過ぎなかった。
『……夜が訪れることを憂鬱に思う日が来るなんて、君に会うまで想像もしていなかった』
真っ白な便せんに文字を記すときはいつでも、グウェンはそこにいない〝他人〟だった。
送り手の性別、送られる側の性別を踏まえて、ふさわしい字体と言葉を選び、美辞麗句を重ねていく。
この国の手紙には型があった。古典や詩を引用して想いを仄めかし、また強調することが良い手紙とされる。だから冷静に頭の中の知識から、書棚の本や時に新聞やティールームでの会話から、引用しモチーフを借りる。
『謝らなければならないことがある。社交場でつい嫉妬から君の存在を明かしてしまったんだ。
ちょうど君のことを考えていたときに、褒め称える声が聞こえてきてね。ほら、新作のオペレッタの主演女優と同じ名前だろう。朝露を乗せたバラの頬もそっくりだ』
羽根ペンを滑らせている間、グウェンは自身の過去から想いを援用したことはない。
少なくともここ数年は、いつも着ている濃いグレーのドレスのように、何を書いても心は動かない。
でなければ、代筆屋という商売は成り立たない。少なくとも、彼女にとっては。
だから最近は感情が動いてしまう――筆が、気が乗らないというのも、克服しなければならない悩みだった。
『愛しい人へ――いつも君を想うローランより』
たった一度、二言三言しか言葉を交わしたことがない依頼人の、顔も知らぬ恋人宛の手紙。三時間もかかってようやくピリオドを打ち終えたとき、グウェンはオリーブがかった緑の目を、仕事机からそのまま扉に移した。
小さな仕事場の、扉を隔てた廊下からゆったりとした靴音が近づいてくる。中に不規則なコツコツという軽い音が混じっている。
このアパートメントの二階に並ぶ部屋は四つ。その三番目である、目の前の扉を過ぎることなく音は止まった。
続いて、扉を探る音。
グウェンは手紙を背後の乾燥ラックに移すと、来客用椅子の位置を変えてから、声を掛けた。丁寧で落ち着いた、温度の低い声を。
「開いていますよ、どうぞ」
扉に掲げられている小さな看板をたっぷり確かめる気配がしてから、返事があった。
「……ウェルズリー代筆所で宜しいでしょうか」
「ええ。どうぞお入りください」
扉が開いて姿を現したのは、仕立ての良いフロックコート姿の紳士だった。焦げ茶の髪に青い瞳。年齢はグウェンとそう変わらないだろうか。
彼は片手で山高帽を軽く上げてから、眼鏡の奥で柔らかく微笑した。
整った顔立ちには、少しの違和感。瞳の焦点はグウェンには定まらず、左手には紳士の象徴にしては長い杖がある。彼女の予想通りだった。
「椅子は前に三歩、右に二歩のところにございます」
「ありがとうございます」
「お客様は代筆をお考えに?」
「こちらは手書きと伺っていますが……」
グウェンはちらりと部屋の隅を見やる。そこには布をかぶったタイプライターが鎮座していた。
「タイプライターでの代筆は、特にご希望の場合に承っております。……他人の筆跡は苦手であるとか、万一にでもどなたかに知られたくないなど、ご事情は様々です」
「なら良かった。手書きでお願いします」
言われた通りの歩数で腰を下ろした男性は、杖を手放さないまま答える。
グウェンは思案する。これはすぐ逃げられるようにか、それとも最近の多くの依頼人のように、おおよそ文面も何もかもこちらに放り投げてしまうつもりか。
どちらでもいい、と思いかけて、思い直す。
――どちらでも、よくない。全く。
仕事を始めた頃、依頼人のほとんどは「想いの丈を伝える表現が思い付かない」人々だった。相手への思いやり、心配、抑えきれない愛情を伝わるかたちにしてほしい、と話す顔は今でも一人一人思い出せる。
なるべく心情を汲んで、時に入り込むようにして文字を記す時間は心躍った。
しかし今では、自分は差出人――〝他人〟、いや、人ですらなく、まるで辞書になった気分すらしていた。
さっきのローランと同じだったら、グウェンは断ろうと思っていた。日に日に、執筆時間が延びていく自覚があった。到底もう、規定の日数で――二、三日以内に――書き上げられる気がしなかった。
つまりはスランプだ。
戻れる実家もない女が一人で生きるのに、金はいくらでもあった方がいい。それに彼は間違いなくお金持ちだ。
そんなせっかくの顧客を目の前にして、胃の奥がじわりじわりと重くなってくる。
受けるべきか、断るべきか。
グウェンがゆっくりと顔を伺ったとき、……けれど、彼は期待を裏切って、こう言った。
「……本当は、自分で書きたいのですが」
はにかむ少年のような笑みに、グウェンは瞬きした。
表情を失ったような、せいぜい営業用の微笑しかできない彼女にとってはいかにも初々しい。胃の奥にあったもたれは綺麗さっぱり消えてしまった。
重苦しかった口がいつもの調子を取り戻す。
「失礼ですが、お客様のお名前は」
「ヴァージル・マクラウドです」
「お相手は恋人ですか? どのような方か伺っても?」
「ええ。ティナ・サールという一つ年下の、帽子店の店員です。先月お付き合いをすることになったのですが、外出に誘う手紙を送りたくて」
「手紙は初めてでいらっしゃいますか? 内容はこちらにお任せする方も多いのですが」
「文面は自分で考えます……考えました。考えましたが……その、女性の目線で無礼でないか確認していただいて、代筆をお願いしたいのです。……おかしいでしょうか」
「いいえ」
グウェンは、ふいに不安げな色を宿す瞳に、安心させるために僅かに笑む。……あまり見えていないだろうが、雰囲気は伝わるだろう。
「初めての手紙は誰しも不安なものです。お任せください。もし宜しければ、お返事の代読もできますが」
「ああ、それは家に拡大鏡があるので結構です。どうも手先が不器用なのです。緊張もあるのでしょう、何度も書き損じてしまって」
照れたような笑みに、グウェンはこの客に好感を覚えた――この人の手紙なら書ける気がする。書くべき言葉がこの人にはある。
「何度も書き損じても、ご自身で書こうと思われることは素晴らしいですよ」
お世辞でなく言えば、ヴァージルは帽子を取った。
「ありがとうございます」
「お預かりします。……お茶はいかがですか?」
「いただきます」
***
『愛らしいティナへ
いつかあなたが観たいと話していた、劇のチケットが手に入りました。
金曜の夜九時はいかがでしょうか。
ヴァージル・マクラウド』
『ヴァージル・マクラウド様
お誘い、喜んでお受けします。話のついでにひとこと言っただけなのに、覚えててくれたなんて嬉しい。
ティナ・サールより愛を込めて』
*
『ヴァージル・マクラウド様
劇、とても楽しかったです。それにまさかヴァーレイ・ストリートのデパートでショッピングできるなんて思いもしませんでした。
少し気になったのだけど、いつもお一人なのね? 紋章付きの馬車だと思っていたから、ちょっとおめかししすぎたかもしれなくて、恥ずかしかったわ。
あなたを愛するティナ』
『ティナ・サール様
あなたに喜んでもらえて嬉しいです。
紋章付きの馬車は、子爵が公的な外出をするときにしか使わないんだ。それに、杖があれば慣れた場所は問題ないから、なるべく一人で行動するようにしている。
君に似合うドレスがあって良かった。でも、どんな衣装であっても、場違いということはなかったよ。
ヴァージルより』
***
「初めてのデートが成功したようで良かったです」
「ありがとう。でもあなたの筆跡のおかげです、ウェルズリーさん。内容は素朴だと言われてしまいましたから」
三回目になるヴァージルの訪問を受けたとき、彼の声は弾んでいた。不安による迷いは顔から消え去って、静かに満ち足りた様子だ。
「手紙に書く素直な気持ちに、素朴すぎることはないように思いますが」
それを言えばティナは少々〝正直〟すぎるとグウェンは思ったが、二人の距離を直接見たわけでなし、ああいう甘え方をする女の子は、男性には可愛いものなのかもしれない。
「あの、もし彼女のことなら悪く思わないでください。いつもとても親切なんです。よく周りを見ていて、商品も気を遣って説明をしてくれて。……ああ、本題に入りますね。次は植物園に誘おうと思っているのですが」
「マクラウド様は、花がお好きなのですか?」
念のため把握しておいた方がいいだろうと思って問うと、素直な回答が返ってきた。
「ええ、視線を合わせなくていいですし、それになんとなく色の固まりは分かります。香りはもっと。手触りも。だから好きな花はヒマワリにジャスミンにフランネルフラワー。極端だと言われますね」
「サールさんの好きなお花はご存じですか?」
「まだ花束を贈っていないのですが、薔薇が好きだったと思います。あそこには温室もあるから四季の花が見られるし、ちょっとした博物館やカフェも併設されていて……」
ああ。と、再び話が逸れたことを恥じるように、彼は声を上げる。
「私がよく通っている場所なのです。道が広く、開けているし、馬車が入れない」
「馬車が入れない?」
「昔から、家族が何でも気を回して、なかなか一人で歩かせてくれなかったんですよ。公園も通りも、馬車や車に轢かれるとか何とか言って。だから自由にさせてもらえたのは屋敷の庭くらいで、あとは誰かしら使用人が一緒でした」
グウェンは貴族階級ではなかったが、覚えがあったので頷く。実家では淑女として。嫁ぎ先では妻として。
「そうですね。心配はありがたいものですが、いつも誰かの目を気にしなければならないというのは窮屈ですね」
あくまで、一般論だ。それでも、久しぶりに口にした私的な内容に慌てて口を噤む。けれどヴァージルは何も気にしたそぶりがない。
彼が自身について開示する性質からかもしれないが、気付いていないなら良かった――と密かに胸をなで下ろし、何でもないように提案する。
「それでは、お誘いの手紙を書きましょう」
***
『愛しいティナへ
足首の怪我は良くなったでしょうか。
あの植物園が改装中だと知らなかったから、不都合な思いをさせてしまったと思う。本当に申し訳ないことをしました。
もしよく見えていたらきっと避けていたし、きっと支えていた。それに、もっとよくあなたを気にかけていたら……。
ぜひお見舞いに行きたいんだけど、予定はどうかな。
ヴァージルより愛を込めて』
『親切なヴァージルへ
植物園って、あんな土だらけの場所もあるのね。てっきり整備されたところだけかと思ってたわ。張り切ってお洒落してきたのが悪かったみたい。
怪我は気にしないで、ヴァージルのせいじゃないもの。
でも、今度はもっと楽しい場所に行きたいわね。花は見るより飾る方が好きなの。それにご友人方にも会って話をしてみたいわ。
あなたのティナより』
***
「頂き物のショートブレッドですが、お待ちの間に召し上がりますか?」
グウェンはヴァージルに尋ねた。
依頼人から新しい手紙の依頼を受けるたびに、今まで送った手紙の写しと返信の手紙を、全てはじめから読み返すことにしているからだ。
「ここへの訪問が、すっかりお茶の時間になっていますね。……ああ、嫌味ではありません、済みません」
「いいえ。……ただ会話と感情の流れを確認しておきたいのです」
「代筆だけでなく、普段は文面もよく?」
「はい。内容を混同しては大変ですし、誰かに使ったものと同じ表現はなるべく避けたいのです」
ヴァージルは週に一度、月曜の夕方に事務所を訪れる。グウェンはその時間の予約を空けておき、定位置に椅子と机、それに拡大鏡とお茶を整えておくようになっていた。
彼もまた、すっかり位置を覚えた椅子に腰掛け、帽子を置いた。
「なかなか、大変なお仕事ですね。たとえばそう……月や花などは頻出しそうですね」
「夜が訪れる前に別れを告げる月、逢瀬の月、明け方の月……人気のモチーフはどれも無数の表現がありますが、重ねる想いは人それぞれです」
「ちょっとした返事でも何時間も迷う私には、恋文ばかり数百通も思い付きません。失礼ですが……いつも落ち着いていらっしゃるように見えます。私よりずっと豊かな内面をお持ちなのでしょうね。……いただきます」
グウェンは彼の言葉に、ちらりと窓ガラスに目をやった。元夫に顔「だけ」は美しいと言われた、つまらない女が――ほとんどにこりとも笑わない、怒っているようにも見えない、無の表情が映っている。
彼女は「単なる知識の積み上げと引用です」とは言わずに、話題を変えた。
「……そういえば、最近お仕事がお忙しいとか。こちらから伺うこともできますが、いかがしますか」
ヴァージルは初対面の印象と違い、態度は控えめではあっても、自身――とりわけ目――について語るのを嫌がらなかった。
マクラウド子爵家の長男だという彼は、生まれつきの視力が弱く、早々に次の子爵の継承権を弟である次男に譲ったという。仕事はサポートだそうだ。気を遣う必要がある筆記は時に部下にさせているが、他はなるべく自身でしているという。
「出張手当を少々いただきますが」
「最近予約が取りづらいと噂の代筆事務所に、そんなことをしたら恨まれそうです」
ヴァージルはいつものように柔らかく微笑むが、彼がグウェンが人気代筆屋だから、という意味なら全くの誤解をしている。
グウェンは緩く首を振って、ショートブレッドを彼の前に置いた。
「依頼をお受けする件数を、減らしているんです」
「それは何故です?」
「仕事もある程度軌道に乗りましたから、もう少し丁寧な仕事をしたくて」
グウェンは言葉を切る。
ヴァージルのまとう空気はいつも柔らかいから、つい本音を言いそうになる。お金目当てのまま受け続けては、このままでは書けなくなるような気がしている、と。つい丁寧な仕事をさせてくれる人のものだけを希望してしまう、と。
「何故です、十分に丁寧ですよ。他のお客さんだってそう言うはずです。こんなに美味しいショートブレッドをいただけるほど満足されているのでしょう」
「一人で食べるには、重いです」
グウェンは決まり悪くなって愛想笑いを浮かべると、机に戻って手紙に目を通す。
これは、空虚な言葉を連ねた手紙にもらったお礼だ。差出人と受取人の名前と性別、年齢しか知らない。勿論、受け取った側もあの手紙が代筆だと知っていると思う。
手紙の内容、あるいはお金と時間をかけて依頼したこと自体を、嬉しいと思う人もいるだろう。そして、恋が上手くいくかは結局のところ手紙以外のところで決まる。
だから手紙は、良くも悪くもたいしたことはない、きっかけ作りに過ぎないと解っている。……けれど、騙しているような気もしてくるのだ。数百通もの恋文、どうしたって似た表現や言葉を繰り返し使っている。彼らの背景が見えないならなおさら、齟齬が出ないようにと無難な言葉を選んでしまう。
「今日はどんなお手紙でしょうか、実は、こう言ったら失礼ですが……マクラウドさんとのお仕事は進めやすいのです」
彼以外の仕事も受けているが、依頼人の中では一番気が休まるのだ。「全部お任せだけど、高度な古典の引用を」といった依頼のように、パズルのような文面を考えなくていいからというのは、ある。
しかし最も重要なのは、ヴァージルが文面を話すとき、恋人について語るとき、それはそれは嬉しそうなのだ。グウェンがついぞ結婚で感じ得なかったもの。その喜びをお裾分けしてもらっているような、灰色の事務所に明るい色が付くような気がする。
「彼女が移動遊園地に行きたいと言っているのですが、私にはほとんど経験がないんです。それで……友人を数人、同席してもいいかと思って」
「サールさんはとても楽しみにしていらっしゃるんですね」
「ええ、町中見渡せる観覧車が特に好きなんだそうです。私も乗れればいいのですが、無理なら下で待っているつもりです。……一緒に同じ景色を見られたら、もっと素敵だなと思うのですが」
下がる語尾に滲むのは、僅かな悔しさなのか。グウェンはつい、余計な言葉を――感想を付け加える。
「見たものを、サールさんに語ってもらえばいいと思いますよ」
***
『ティナへ
先日はありがとう。友人たちとも会話が弾んでいたようで良かった。
楽しそうな君の様子が伝わってくるだけで十分だった。
ヴァージル
追伸:今度、大事な話をしたいと思っているんだ。もし都合が付くなら、水曜の夜、レストランを予約しておくよ』
『愛しいヴァージルへ
久しぶりの移動遊園地、とっても楽しかった。貴方のご友人もとっても素敵な方ばかりね。
もう五回も観覧車に乗ったかしら。あなたは何故か遠慮してずっと下にいたみたいだけど、一緒に来れば良かったのに。
ああでも、私も本当は一緒に回りたかったの。それに、あのワゴンのアイスクリームを食べそびれちゃった。
本当に楽しかったわ。お友達も一緒に、また行きましょう。
レストランも楽しみにしてる。
ティナより』
***
ビスケットの皿をことり、と置いたとき、ヴァージルは不意に口を開いた。
「お菓子は何がお好みですか?」
「……え?」
つい、そう口にしてしまったのは、今まで私的な好みを尋ねられたことがなかったからだ。
顧客の中には、手紙に記す情熱的な文章を彼女の性分と勘違いして、好意を抱いてきたり、浮気相手にと誘ってくる人もいた。
しかし、彼は瞬時に決まり悪げな顔になった。口調からしてもそんな含みは全くなさそうだ。
「ああ、警戒させてしまったら済みません。この前ショートブレッドを『重い』と仰っていたでしょう」
「こちらこそ。意外だっただけなのです。……よく覚えていらっしゃいますね」
「目が不自由な分、他のことはよく覚えようとしています。靴の音、身長、どんな動き方をして、どんな声音なのか。好きなものも、嫌いなものも」
確かに、目に見えるものばかりがその人を現すものではない。
言っていいのか、何の意味があるのか。そんなことを数拍の間グウェンは考えたものの、返答しない理由もないだろうと、口にした。
害はないはず。彼はきっと言葉通り、忘れたりしないのだろう――いや忘れたとしても、前に暮らしていた家のように、嫌いなものをわざわざ食卓に乗せたりなんてしない。
「その……甘いプディングです」
ふわっとした生地に爽やかなオレンジの香りや、ベリーが染みこんだ生地の上からソースを掛けたプディングは、目にも、口当たりも柔らかくほわほわしていて彼女好みだ。
「それでは、宜しければお礼に今度ご馳走しましょう」
「……では、つまり……サールさんと上手くいきそうなのですか」
顔を上げると、ヴァージルは嬉しそうに頷いた。
積もった手紙からはそのやりとりしか書かれていないが、二人が急速に親しくなっていく様が言葉遣いやその内容からも伺えた。
……いや、本当は少し気にかかることがある。ティナからの手紙の内容の変化だ。
しかしそれは、代筆屋としては踏み込むべき領域ではない。何より手紙外で決まったことなのだから。
「今度、両親に紹介しようと思っています」
「それは、おめでとうございます」
「昨今は、嫡子でなければ身分の壁も薄くなりましたからね。私があまり外出しないことは、社交界でも知れていますし、彼女に負担もかからないでしょう」
――ビリリリリ。
ヴァージルが帰宅したその夜、グウェンの細い指が、実家から届いた最後の手紙を、真っ二つに引き裂いた。
『グウェン・バロウズ様
君が去ってから、すっかり屋敷の活気がなくなってしまった。愛する彼女は君を寛大にも許して、使用人として雇ってもいいと……』
グウェンは冷ややかな緑の瞳で、それを暖炉に放り込んだ。転送されてきた元夫からの、まだ結婚していたときの姓宛の手紙は、一瞬だけ燃え上がった後、最後まで読まれることなく黒い灰になっていく。
この手紙が届いた日の夜、グウェンは空白になった。
ささやかな希望、不誠実への非難、妥協点の交渉、理性的であろうとした現実的な提案――今までその全てに返答はなかった。
彼女がどんなに言葉を尽くしても届かない。だから古くから残っている素晴らしい言葉を選び、依頼人の想いを重ねて、想像して、手紙にしてきた。
ただそれでも、まだ悔しかったのだろう。
だから取っておいた。
でも、今は違う。一矢報いたような気分だ。
――ヴァージルの言葉が彼の恋人に届いたことを祝して、密かにワインを開けた。
***
『ティナへ
君のことをとても可愛らしいと、友人が褒めていたよ。僕も嬉しかった。
こんなことを言うと怒られるかもしれないけれど、目が悪い私を選んでくれてありがとう。取り急ぎ。ヴァージル』
『愛するヴァージルへ
ご友人方もあなたと同じく素敵な紳士ばかりだったわ。
素敵な会をありがとう。
あなたのティナより』
*
『愛しいティナ
この前、代筆を頼まなかったことを恨んでいるだろうか。
ここ数日、君が熱を出していると聞いた。誰にも会いたくないというから慌てて手書きで手紙を送った。本当に急いでいたから、ひどい字だったことは認めざるを得ない。
少し起き上がれるようになったのなら、一度顔を見せてほしい。できれば看病に行きたいんだけど……嫌ならすぐに帰るつもりだから。
返事は手紙でなくてもいい。使用人に色々持たせたから、その時にでも。
あなたのヴァージル』
『ヴァージル・マクラウド様
ありがとうございます。すっかり病気はよくなりました。
ご両親ともお会いできると思います。
ティナ・サール』
*
『親愛なるティナ・サール様
昨日の会のことで、両親が君を深く傷付けたのではないかと心配している。
君がその……弟の方に興味があるんだろうなんて、たとえ冗談でも言うべきではなかった。
弟にも悪気はないんだ。あの子は婚約者を心から愛しているから、他の女性に対して少々潔癖すぎるところがある。ティナに対してだけじゃない。
家族の失礼を、どうか心からお詫びしたい。
ヴァージル・マクラウド』
返信なし
『ティナ
友人から、君が泣いて家にずっと引きこもっていると聞いたんだ。
会いに行っても無駄だということは分かっているけれど、無理なら返事が欲しい。
ヴァージル』
『ヴァージル・マクラウド様
ごめんなさい。私は貴方に酷いことをしました。もうお目にかかれません。さようなら。
ティナ・サール』
返信なし
返信なし
『ティナ・サール様
返信がなかったため、思いあまって君の家を訪ねてしまった。
あれは、どういうことだったんだろうか』
返信なし
電報:『ティナ、返事が欲しい』
返信なし
返信なし
***
「――しつこいわね、あんたなんか最初から好きじゃなかったのよ! この■■■■■!!」
***
夜を間近にしばらくぶりに聞いた、かつ不規則なコツコツという杖先の音に、グウェンは椅子の位置を直す。
「……こんにちは。久しぶりですが、手紙の代筆をお願いしても?」
グウェンは、ヴァージルの姿に思わず目を瞠った。
眼鏡にひびが入り、頬が半分腫れ上がっていた。アイロンのかかっていた紳士服はよれて、土と埃に汚れていて、杖は真ん中ほどでひしゃげている。
「……どうしたのですか、一体」
「馬車に杖をひかれてしまいました」
「違います……その前は」
「人と、ぶつかりました」
苦笑しているヴァージルの帽子をグウェンは預かると、急いでタオルを水に浸して、定位置に着いた彼の顔の汚れを拭う。
「……あざになっていますね。一度お医者様に診ていただいた方が宜しいでしょう。それとも警察を?」
タオル越しに様子を軽く確かめると、ヴァージルはすぐに引き取って自身で拭き始め、不意に立ち上がった。
「……そうですね。ご迷惑をおかけしました。また出直し――」
「今出ていかないでください。倒れでもしたら困ります」
グウェンは咄嗟に言ってしまってから、彼の杖を持つ震える手を取って、椅子に座らせた。
――大丈夫、これは業務遂行上、あるいは常識的な範囲の親切でしかない会話だ、と言い聞かせながら。
「電報でご家族にお伝えしますか? それとも辻馬車を」
「……辻馬車で帰ります。情けないですが、たまにはこういった姿を見せるのも悪くないでしょう」
「では、私が呼んできます」
グウェンが部屋を飛び出そうとすると、「……待ってください」と小さい声がした。
それから、沈黙。
「……どうしました?」
「ティナに……ティナ・サール嬢に振られました。いえ、最初から好意なんてなかったんです。声を掛けられて舞い上がっていたのは自分だけで」
グウェンは振り返ると、ゆっくりと瞬きをした。彼の口の端が片方、上がっている。今まで見たことがない。
「笑わないんですか? それとも失望を?」
「何故でしょう」
「あれだけ手紙を代筆していただいたのに、結局彼女とは駄目になってしまいました。お気付きだったかもしれませんね。読み返してみれば、思い当たるところが……痛っ。口の中を切っていたみたいだ」
「水をお持ちします」
「……お金は払いませんよ」
露悪的で、それ以上に自嘲の色が濃い言葉に、グウェンは眉をひそめる。それから、ピッチャーからグラスに注いだ水を彼の前に差し出した。
「これはただの、よくある親切です。打算ではなく。それに……」
グウェンの眉間の皺がいっそう深くなる。
自分の言葉は誰にも、何を言っても届かない。――経験からそう思えば、喉の奥が閉じる。それから一度は、彼の成功がひいては自身の成功体験だと思った自分が、少し恥ずかしくもあった。
ただそれよりも、目の前にこぼれた言葉を拾い上げて否定したい気持ちの方が強くて、喉をこじ開ける。
こじ開けることにした。これは、恩返しだ。
「それに……マクラウド様に露悪的な態度は似合いません」
「……済みません」
「もし私が怒っているように見えるから謝るのであれば、やめてください。私はマクラウド様が『手助けしてあげたい謙虚さを現している』から助けたいのではないのです。あなたとの仕事が楽しかったから、あなたがいい人だと私が思っているから、あなたの手助けをしたいと思った。あなたが悪い人であったとしても、今の私が」
一度こじ開ければ決壊した言葉と声には、少し怒りが含まれていたように自身でも思う。気まずくなって視線を逸らす。
けれどグウェンとは対照的に、彼は少し息を呑んでから、意外にも相好を崩した。
「では、……正直に言いましょう。だいぶ自信を失っていました。仕事相手の愚痴を、聞いていただいても?」
「ええ」
「……彼女の住まいは小さくて、奥に部屋があって、全部見通せるんです。丁度、彼女に紹介した友人が出てくるところでした。首元が緩くて、……奥に、寝室には彼女が」
「……どうして、見えたのですか?」
一瞬躊躇った後グウェンが問えば、彼は胸ポケットから片手に収まる大きさの単眼鏡を取りだした。彼が右手で軸を回すと、ぐるりと姿を現した金属の内部が滑らかに伸び縮みする。
「望遠鏡ですか?」
「仕組みは似たようなものです。視力が弱い人のための補助具で……今度は一緒にちゃんと観覧車に乗ろうと思って誂えました。彼女の声がしたので、つい見せようと、思って――」
言葉を一度切って、ヴァージルは続ける。
「さっきぶつかったと言いましたが……本当は、拳でなんです。本気で友人と殴り合いの喧嘩をするなんて、生まれて初めてでした。それに……ああ、こいつは思ったより腕が立たないんだな、なんてことまで考えて。だからって、何が変わるわけでもないのに」
「……」
「自分で思うより私は、柄にもなく、プライドが高い人間らしい」
朗らかな笑いに混じる自嘲は、今度は後悔なのだろうか。ひとしきり笑った後、不意に静かに凪いだ。
「笑ってください」
「……では、傾聴料を頂かない代わりに、私の話も聞いていただけませんか?」
――それはちょっとした思いつきだった。彼の気分が軽くなるよう……あるいは、傷のなめ合い。
彼が頷いたのを確かめると、グウェンは普段通りの静かな声で語り始める。
「……昔の話なのですが。私が家の都合で結婚した夫には、既に恋人がいたのです」
「まさか、あなたを……?」
ヴァージルが信じられない、という風に目を見開いた様子は、同情が強かっただろう。
「長年屋敷に勤める家政婦の娘で、私の侍女になりました。夫と彼女は屋敷の内外で堂々と二人っきりになっていましたから、私はかたちだけの妻です。食事だってほとんど共にしたことがありません。それに彼女は、私の服や装飾品にも瑕疵を見付けたり、汚して、私が我が儘を言ったことにして……〝お下がり〟にしてしまうんです」
「誰も信じて、味方になってくれなかったのですか」
「屋敷の権限は主人にありましたから、『信じないことにした』のです。少しもめたのですが……私は別居して独立の準備をすることにしました。やがて、毎日の外での深酒が習慣だった夫は、足を滑らせて川に落ちて……」
「……お気の毒です」
正直にも少し乾いていた声に、グウェンは苦笑する。苦笑してもいいと思った。
「お気遣いなく。……それに……夫は生前に遺言で、財産の多くを家政婦や愛人に残していました。その後少々借金なども判明したので、未亡人の私は、死後離婚しました。残って始末を手伝ってくれと屋敷の皆に言われましたが、後のことは知りません。でも」
でも。
「ずっと許せなかったのは、許せないのは、結婚前に私に届いた手紙が、全て恋人に宛てた後の使い回しだったことです。そして私への言葉は、あの子が夫を喜ばせた言葉でした」
屋敷の廊下で、庭で、どこにいても聞こえてきた愛のささやきが、夫にとって決まり切った言葉でしかなかった――お下がりだったのは、屈辱だった。
逆にグウェンの、理解を求めた話し合いも、抗議も。言葉は何も届かないまま、使い果たして、空っぽになってしまった。
「……笑ってくださいますか?」
「まさか。そんな酷いことをする人間がいるなんて、信じられない」
その声が本当に意外そうで――朴訥だったから。
この人にはやはり悪意は似合わない。
「でしたら、私の答えと同じです。……馬車をお呼びします」
グウェンは声に微笑を潜ませて、今度こそ彼を置いて、辻馬車を呼ぶためにアパートメントを出た。
***
「『庭に咲く百合を見るたびに、あの人の元に贈った花がまだ咲き続けているか、言い訳をすることでしか、確かめる術がないことが悲しい――』」
グウェンの手が止まり、窓際の花瓶を見やる。依頼人が先日お礼にと持ってきた白百合――彼女が好きな花が、まだ控えめに咲き続けている。
「もしかして、どなたかに花をお贈りになられましたか?」
視線を戻せばその依頼人・ヴァージルがいいえ、と答える。
あの一件からしばらく足が遠のいていた彼だったが、また誰か手紙を送りたい人ができたのか、やって来るようになって数か月が経つ。
職分を越えた応答をしてしまったかと少々後悔していたグウェンには、変わらぬ態度も――収入も――ありがたい。
ただ何故だか、代筆は頼まれたことがない。
毎回、文面の添削指導のようになっている気がする。いや、意見を求められているような。
もしくはその間に挟まる単なる雑談が、忙しいだろう毎日の息抜きなのかもしれない。
数か月の間に理解したが、彼は男性としては少々おしゃべりなところがある。けれど必要のないことにはむやみに触れない。いわゆる人のゴシップではなく、美術展や今人気の劇や、ちょっとした毎日の出来事についての話だ。
グウェンはそれについての意見を、相槌を打つように返す――お茶とたまに彼も持ってきてくれるお菓子を添えたひとときは、グウェンにとっては穏やかな、悪くない時間だった。彼もその程度には感じてくれているかもしれなかった。
「ええ、まあ……それより、こういった表現はどうでしょうか」
「一番はお相手の感じ方かなと思いますが。……マクラウドさんは、自然な方が良い文章を書かれるかと思います。無理に詩的な言葉を綴らなくとも良いのではないでしょうか。最近の古典の引用ブームは加熱しすぎて、私でもいっそタイプライターが自動的に言葉を綴ってくれれば楽なのに、と思ったことすらあります」
そんな言葉が自然に出てくる。以前よりも会話に対する抵抗感は減っていた。
言葉は食事だ。温かい言葉を食べれば慈しみが、冷たい言葉ばかり飲んでいたら皮肉や暴言ばかりがでてしまう。
夫と同じ屋敷にいたときは、「今後の不利になるから」と抱えていた、言い返したいという衝動を抑えられるだけで上出来だと思っていた。
でも今は多分、それでは足りないと感じている。
「……無理してるように思いますか。悪くはないでしょうか、実はその……あなたが窓から見ている世界はこうなのかなって、想像してみたんですが」
「勿論、悪くはありません。でもいつものマクラウドさんの言葉で、ご自身の字で書かれるのが一番喜ばれると思います」
「ヴェルズリーさんは、そちらがお好きですか」
どこか真剣な調子で念を押されて、グウェンは頷く。
「ええ。高度な比喩が美術館の絵画なら、マクラウドさんの言葉は画用紙に水彩絵の具を置くような、夕食に灯す蝋燭の明かりのような、親しみやすいものですね」
そして高級レストランの食事ならば予算の都合で続かなかったり食べ飽きてしまっても、普段の食事は、日常に溶け込んで栄養になるものだと思う。
「……そうか、良かった。背伸びしすぎても続けられないだろうなと思っていたんです。……実は今回は、既に全部、自分で書いた手紙があって」
恥じらうような声音に真摯さが潜んでいた。意外な言葉にグウェンは手元から顔を上げて、目を瞠る。
いつの間にか、ヴァージルが立ち上がっている。急いで周囲の足元に邪魔になるものはないか視線を走らせるが、杖もなく勝手知ったるような足取りだった。
「お返事をいただけませんか」
そう言って薄緑色の封筒を差し出す。彼女が好きな色だ。……好きな色だと、話したことはあっただろうか。
宛先の場所にはこの事務所の住所と、グウェンの名が少し癖のある字で記されている。
まじまじと見返せば、はにかんだ優しい笑みが彼女に向けられていた。
「美味しいプディングを出す店を知っているんです。
もしあなたが美味しいと――いや、まずいでもいいんですが――言ってくれたら、多分それは、私にとってすごく価値のある言葉だと思うんですが」
――グウェン・ウェルズリーは空白である、と、ずっと自身のことを思っていた。
その夜帰宅した彼女が最初にしたことは、書棚の中から本を探し回って、拡大鏡越しでなくとも読める大きさと字体を見付けることだった。
そして彼女は返事のために用意した便せんの空白を、自分で埋め尽くした。
第二話 プディングと観覧車
『グウェン・ウェルズリー様
以前手紙を依頼した際、ウェルズリーさんの好きなお菓子を尋ねたことを覚えておいででしょうか。
プディングをご馳走すると言っておきながら、情けないことにそのままになっていました。
あの時は確かに、私の依頼に美しい手紙で素晴らしい結果をもたらしてくれたお礼のつもりでした。それに、約束をしていたわけでもないので、何を蒸し返すのだろうと思われたかもしれません。
ですが今は、結果は全く関係なく――むしろするべき経験だったのだと感じているのですが、それとも関係なく。
ただあなたの仕事への誠実さと親切心への感謝と、もしかしたら似たようなものを感じているのではないかと思って、お恥ずかしながらペンを執りました。
時間は経ってしまいましたが、プディングを食べに行きませんか。
ご存じでしょうか、王立公園の通りを一本入った場所にある赤煉瓦の半木組みの店です。
誤解しないでいただきたいのですが、これは仕事や親切の〝お礼〟としてお誘いしたのではありません。
ただ美味しいプディングを――ウェルズリーさんにとってもそうだといいのですが――ご馳走したいし、仕事以外の時間をほんの少しご一緒したいだけなのです。
ですから勿論、気が乗らないようでしたら断っていただいて構いません。
お返事をお待ちしています。
ヴァージル・マクラウド』
『マクラウド子爵令息ヴァージル・マクラウド様
お手紙をありがとうございます。蒸し返すなんてことはありません。
お誘いは正直に言えば、意外でした。けれど、プディングのことも、約束も、マクラウド様が覚えていてくださったことだけでも……いえ、そのこと自体を嬉しく思います。
手紙を頂いたことも。代筆でなく手ずから書いていただいたことも。私自身が代筆業をしているのに、おかしいとお思いになるかもしれませんが。
それに便せんの春に萌える柔らかな芽のような緑色は、机上に小さな庭ができたようです。
けれど何より、手紙と共にかけていただいた言葉をとても嬉しく思いました。
お誘いをお受けいたします。
日時等詳細はまた、改めて。
グウェン・ウェルズリー』