「にゃ……っ、にゃ、ぁ……っ!?」
黒猫のフェイは、ぞくぞくとなにかが背筋を昇っていく感覚に、青年の腕の中で困惑の啼き声を上げていた。
「にゃ……っ、ぁ……っ!」
「こんなふうに触られるの、気持ちいいの?」
「にゃぁ、ぁ……っ!」
人間で言うところの背筋や胸元を長い指先で愛撫され、びくびくと足が震えてしまう。
「可愛い」
「んにゃ……っ!?」
ちゅ……っ、と鼻先にキスをされ、ぴくん、と肩が揺れた。
怪我をした自分を拾ってくれた魔法士の青年は、どうやら無類の猫好きらしい。
治癒魔法ですっかり元気になったフェイを嬉しそうに見つめ、ゴロゴロと首を愛撫して、優しく背中を撫でてくれた。
その手があまりにも気持ちよくて、ついつい身を任せてしまえば、ひょい、と身体を持ち上げられ、フェイにとってはファーストキスまで奪われてしまった。
唇に、ちゅ、と軽い感触がして、それが彼の唇によるものだと気づいた瞬間、フェイの顔は沸騰した。――もっとも、黒猫のフェイの顔が実際に赤くなることはなかったけれど。
「帰したくなくなっちゃうな……」
「にゃあ、ん……っ」
きゅ、と抱き込まれ、頬を寄せながら背中を撫でられ、また甘えた啼き声が出てしまう。
彼も、さすがに拾った子猫をこのまま飼うようなことはできないのだろう。濡れた瞳で青年を見上げれば、長い前髪に隠れたその顔は、少しだけ困ったような苦笑いを零していた。
「……でも、君は|戻りたい《・・・・》よね?」
「……にゃ……っ、にゃあ……っ!」
お尻や脚まで撫でてくるのは本当に止めてほしい。
特に内股の際どい部分に触れられると、ぞくぞくとした痺れが背筋を昇っていって、目の奥に星が舞う。
「にゃ……っ、ぁ、ぁ……っ!」
身体中を優しく愛撫してくる青年の指先に身悶えながら、フェイは無意識にこくこくと必死に頷いた。
フェイにしても、本当の意味ではこのまま彼の飼い猫になるわけにはいかないのだ。たとえ黒猫のまま|元の姿に戻れなくても《・・・・・・・・・・》、青年に保護されたままではいられない。
なんとか元の姿に――、|人間に戻る《・・・・・》方法を見つけ出さなければ。ただ、そのためには、この青年の傍にいることが一番の近道だと考えただけで。
「……困ったなぁ……」
なにやら彼が呟いている気がするが、フェイの耳にはもうそれらの言葉は入ってこなかった。
「にゃ、にゃぁ……っ!」
「……本当、可愛い」
びくびくと身悶えるフェイを見つめ、青年は甘く笑む。
そうして。
「君、名前は?」
「にゃ……」
ちゅ……、と。今度は少しだけ長いキスを落とされたフェイは、なぜか強烈な睡魔に襲われて、そのまま意識を手離してしまっていた。
――『フェイ、です。黒猫なんかじゃなくて、私はおちこぼれ魔女のフェイ』
そして、次にフェイが目を覚ました時には。
「……ゆ、め……?」
自室のベッドの上。一体自分の身になにが起こったのだろうと、人間の姿に戻っている自分の身体を見下ろして、フェイは呆然とした呟きを洩らしていた。
一章 おちこぼれ魔女は「拾われて」
「……どうしていつもこうなっちゃうんだろう……」
腰までの長い黒髪。ケープコートのような黒いローブを着た少女――、フェイは、手の中で煙を吐くフラスコを前に涙目になっていた。
幼い頃から魔法に興味のあったフェイが、渋る両親を説得し、高等学校卒業と同時にこの魔法学園に入学してから早三カ月。フェイは日々努力を重ね……、見事“おちこぼれ”のレッテルを貼られるまでになっていた。
「……やっぱり……、才能、ないのかな……」
誰もいない教室で、ぽつり、と呟いてため息を一つ。
幼い頃、興味本位で受けた魔力検査で、「魔力有」という判定をもらった時。「魔法が使える」というその素敵な響きに小さな胸を躍らせた。けれどその魔力検査は、魔力の有無を判定できるだけで、個々の魔力量までを測れるものではない。
フェイの両親は魔法など使えない。魔力は遺伝ではないと言われているが、結果的には「どうせ大したことはないから止めておきなさい」と言っていた両親の忠告通りだったということだろうか。
それでも、両親を説き伏せてまで目指した“魔法使い”になる夢は捨てきれない。いつか、ホウキに乗って空を自由に飛び回れたら、そこから見る景色はどんなに素敵なものだろう。
初歩魔法すらまともに使えず、こうして時折弱気になってしまうこともあるけれど、なにがなんでも諦めないと、そう誓って家を出てきたのだ。こんなところで立ち止まってはいられない。
「っよし……っ! もう一回……!」
パチパチと両頬を叩いて気合いを入れ直し、フェイは魔法書を片手に持って、開いたページに目を落とす。とはいえそこには、もうすっかり暗記してしまった文字が並ぶばかりで。
「……今日はもう帰ろうかな」
失敗続きでさすがに少し凹んでしまったフェイは、夕陽の射し込む室内で、そんな弱気を小さく洩らす。
あまり頑張りすぎるのも逆効果だと。たまには美味しいご飯をゆっくり食べようと。そんな言い訳をしながら、魔法の練習に使った道具を片付け、帰り支度をする。
最後に、鞄の中へと魔法書を仕舞い……。
「……これ……」
ふと落とした視線の先。そこに、黒い表紙をした本を見つけ、フェイは机の下へと手を伸ばす。
「……! 超高等魔法の本……」
金色の箔押しのされたその本は、上級魔法のさらにその上。超高等魔法についてのあれこれが書かれたものだった。フェイ程度の魔女では、絶対にお目にかかることのできない貴重な本。
「……どうしてこんなところに……」
上級生が落としていったのだろうか。
むくむくと湧き出た好奇心には勝てず、ついパラパラと本を捲ってしまう。
そもそも、呪文がわかったところで才能がなければ魔法は発動しないのだ。そのため、魔法書自体はそれほど厳重に管理されてはいない。
「わぁ~! |変化《へんげ》の呪。こんなことできたらいいけど……。さすがにここまでは無理だってわかってるし」
とある一ページ。姿を変える魔法について書かれているページを食い入るように見つめ、フェイはきらきらと瞳を輝かせる。
「いいなぁ~。素敵。『黒猫になぁれ!』って……」
ホウキを操り、自由に空を飛ぶことも憧れだが、やはり自分以外のなにかに変身してみたいという欲求は、魔法使いの――、否、魔法使いに限らず、世の人間誰もが抱く夢だろう。
この学校に入ってまず学んだものは、魔法の文字。誰よりも一生懸命読み書きをしたという自信があるフェイは、その本に書かれた難解な魔法文字もなんなく読めた。
魔法書を片手にコホンと一つ咳払いをし、一流の魔法使いの真似事で、立てた指先で宙へくるりと弧を描く。
「******************!」
黒猫になぁれ! と。呪文を口にして。
発動するはずのない魔法は、雰囲気を楽しむためだけのものだった。
それなのに。
(……え……っ!?)
ぞわぞわと身体中に不思議な感覚が広がっていき、視界がどんどん下がっていく。まるで教室が大きく育っていくような――……。だが、それが|自分が縮んだため《・・・・・・・・》であることに気づいて、フェイは驚愕の声を上げる。
「!? にゃっ!? にゃぁぁぁ~~っ!?」
(嘘でしょ……!?)
見下ろした自分の手足は、黒い毛に覆われていて。きょろきょろと全身を見回せば、フェイの|瞳《め》には紛れもない黒猫の特徴が飛び込んでくる。
「にゃあ~っ!?」
あまりの事態に驚き、飛び上がる。
――|変化《へんげ》の魔法に成功したのだ。
初歩魔法すら失敗ばかりのフェイが。初めて、魔法を成功させた。しかも、使える者の限られている超高度魔法を。
「にゃっ、にゃっ、にゃ~」
途端、嬉しくなってしまい、教室内を鼻歌混じりで歩き回る。
「にゃにゃんっ、にゃにゃんっ、にゃにゃん!」
これがもし人間の姿だったなら、唄を口ずさみながらスキップをするフェイの姿が見えていただろう。
――嬉しい。嬉しい。嬉しい……!
胸いっぱいの喜びに満たされながら歩いていると、ふと鏡に映った黒猫の姿が目に入る。
「にゃん!?」
洋服まで|変化《へんげ》するのか、肩にちょこんと乗ったケープに、くるりとした|円《つぶ》らな瞳。
自分で言うのもなんだけれど、そこには小さく可愛らしい黒猫がいて、鏡の前でくるくると回ってしまう。
けれど、どれくらいそんなことをしていただろうか。
ふと正気に返ったフェイは、突然不安に襲われた。
(……そういえば、どうやって元に戻るの……?)
|変化《へんげ》の魔法だ。解呪の魔法はもちろんあるに違いない。
だが、初歩魔法さえまともに使えたことのないフェイが、奇跡的にこんな超高等魔法を発動させ、その魔法を解くことができるのか。
そんなことを思えばどんどん不安になってきて、慌てて先ほどの魔法書の元まで行くと、そのページを舐めるように熟読する。
(これだ……!)
解呪の呪文を見つけ、「あっ、た……」と、一安心して吐息をつく。
ゆっくりと深呼吸を一つしてから、解呪の呪文を口にする。
「********************!」
一思いに口にして数秒後。
「っ! にぁ~~!?」
先ほどと違い、なんの変化も感じられない身体に、フェイはぞくりと身を震わせる。
(嘘……っ!? 戻れない!?)