プロローグ 恋が叶うインク店
「ソラーノ印」のインクでラブレターを書くと、恋が叶う――。
最近、女子学生たちの間で、そんな噂が広まっている。
王都のきらびやかな街並みの一角に、年季の入ったターコイズブルーの外壁の店がある。それがソラーノ・インク店だ。
小さいながらも堅実な佇まいで、いかにも専門店という風情がある。色恋沙汰とは全く無関係に見える店なのだが、今日もまた、ひとりの少女が入り口の前に立っていた。
(えぇー……。ほんとにこのお店のインクで恋がうまくいくの?)
先週友だちからそんな話を聞いたが、正直言って半信半疑だ。だって、どう見ても壮年の男性が出てきそうじゃないか。そんな人に「ラブレターを書くためのインクをください」なんて恥ずかしくて言えるわけがない。
(でも……これはどう見てもおじさんの趣味ではないよね)
視線を落とせば、「OPEN」と書かれたパステルイエローの札と小さなドライフラワーのリースがドアノブにかかっている。明らかに店構えに似つかわしくない。
(もしかしたら奥さんが恋愛相談に乗ってくれる……とかかな)
それであれば納得がいく。
少女の手がドアノブの前を行ったり来たりした。
あれこれ想像するけれど、やっぱり中に入るのをためらってしまう。でも、せっかく馬車を乗り継いでここまでやって来たのだ。せめて「どういうお店なのか」くらいはこの目で確かめておきたい。何より噂が本当なら、この恋を成就させたい――!
(ええい、神さま!)
少女は勇気を出してお店のドアを開けた。
最初に感じたのは古風でスモーキーな香り。図書館の中で深呼吸をしているようだった。
そして次に目に飛び込んできたのが、カウンターの向こうに設置されたダークブラウンの大きな棚。そこに数え切れないくらいのインクの瓶が並んでいた。
壁には柔らかな色彩の絵画が飾られ、カウンターのすぐそばにある丸いテーブルには陶器の花瓶が置かれている。
「わぁ……」
まるで異空間に迷い込んだような静謐さに少女が目を丸くしていると、ふわりと誰かが動く気配がした。
「いらっしゃいませ。ご入り用でしたら、何なりとお申し付けくださいね」
「あ……」
少女とさほど年は変わらないだろうか。ゆっくりとした足取りで女性が近づいてくる。
丹念になめした黒革のように艷やかな髪、灰色に暖かいミルクティーカラーを混ぜた瞳の色。レースがたっぷりとあしらわれた生成りのブラウスに深紫のジャンパースカートを合わせていて、彼女が歩くと裾がふわふわと花びらみたいに揺れるのが印象的だった。
(売り子さん?)
少女がそう思ったのが伝わったのか、彼女はくすくすと笑う。
「私がこの店のインク職人、フェリス=ソラーノです」
「あなたが!?」
「ええ。初めてのお客さんにはいつも売り子に間違われてしまいますけど」
そう言って、フェリスと名乗った女性はもう一度笑う。滑らかな肌に薔薇色のパステルを丸くふんわりと乗せたような頬が印象的だ。
「あの……実は友だちからここのインクは恋に効くって聞いて……。あたしにもラブレター用のインクを作ってもらえませんか?」
「もちろん。そこの棚にあるインクをお渡しすることもできますし、この場で調色することもできますが、いかがいたしましょうか」
「こっ、この場でお願いします!!」
「それではそこにお掛けになってください。すぐに準備いたしますね」
少女はフェリスに促されて、カウンターの椅子に腰掛けた。フェリスが色とりどりの小瓶や乳鉢をトレイに乗せて持ってくる。まるで今から占いでも始まるような雰囲気に、少女の期待が高まった。
フェリスは少女の前に立つと、ゆったりとした口調で質問を始めた。
「それではまず、どんな色にしたいかご希望を伺いますね。お好きな色は――グリーンですか?」
「えっ、なんでそれを……?」
「鞄にグリーンのリボンをつけているでしょう?」
「すごい……あたし、若草色が一番好きなんですよ! よく分かりましたね!」
「お客さまのオーダーを伺う時は、五感を研ぎ澄ませるのが大切なんです。色って曖昧なものだから、お客さまの持ち物やお召し物を手がかりにするとイメージの輪郭がはっきりしやすいんです」
その後もフェリスから趣味や休みの日の過ごし方などを聞かれたので、少女はひとつひとつ答えていった。フェリスは静かに頷くが、話を聞きながら頭の中であれこれと色を思い浮かべているようだった。
「では、今度はお客さまの好きな人がどういう方か伺ってもよろしいですか?」
「あたしの先輩なんですけど、スポーツマンで、声が大きくて、結構ハキハキとものを言うタイプなんですよね。遠回しなのが嫌いというか」
「ということは服装もシンプルなのがお好き?」
「あー、確かにアクセサリーとか好きじゃない人ですね」
「じゃあラメや香りはつけずに、色味だけで勝負しましょうか」
そう言って、フェリスが手元の小さなパレットにスポイトで青と黄色のインクを落としていく。二色を混ぜて、少し考え、黄色と透明の薄め液を足して、もう一度混ぜて……。
「こちらでいかがですか?」
フェリスがガラスペンとメモ帳を渡し、試し書きするよう促す。少女はそれを手に取ると、スルスルとサインをした。すると――。
「わあ! すっごくいい色!」
感動を声に出さずにはいられなかった。
フェリスがブレンドしたインクで自分の名前を書いただけなのに、紙の上で文字が枝を伸ばし、青々と生い茂る若草が太陽の光を浴びているように見える。
たったこれだけのヒアリングで、ここまで客の好みに寄せられるとは。少女は目を丸くした。
「あたし、こういう色大好きなんです! ほんとに綺麗……っ」
「ありがとうございます。お客さまの印象がとても明るいので、爽やかで行動力のある色がいいかなと思ったんですが、正解でしたね」
フェリスが「他にも試したい色は?」と尋ねてくれたので、少女はオレンジ系のインクを見せてほしいとお願いした。赤と黄色のインクが混ぜられていく。合間に美しい滲みのことや、紙との相性についての豆知識を聞かせてもらいながら。
「インクって奥が深いんですね。あたし、全然知らなかった……」
「ですよね。私もそう思いながら、試行錯誤の毎日なんです」
フェリスはそう言うと、インクを混ぜる手を止めて、どこか遠くの方を見つめるように顔を上げる。
少女にはフェリスの視線が、特定の誰かに向けられたもののように見えた。
他にも数色作ってもらったが、少女は最終的に最初に作ってもらったグリーンのインクを購入することにした。
フェリスが丸いボトルにインクを注いでいく。深い色合いが小瓶に満ちていくのを眺めながら、少女は不思議な気持ちになっていた。
(色の力ってすごい。自分だけのお守りみたいだ……)
ここに来るまでは、インクが恋に効くなんて信じきれなかった。でも今なら分かる。フェリスが作ってくれた色が背中を押してくれている、と。
うまくいくか、いかないか。それだけを気にしていたら一歩も動けない。けれどこのインクさえあれば、ありったけの勇気を出して気持ちを伝えることができる――。なぜかは分からないけれど、心からそう思えた。
「応援していますよ」
フェリスの温かい励ましを胸に、少女はインクのボトルを大切に持ち帰り、ラブレターを書いた。
その結果はというと――。
第一章 媚薬インクにご用心!
朝六時。フェリスはうーんと伸びをひとつすると、部屋の窓を開けた。
ここ最近、ぐんと朝の寒さが厳しくなった。
王都の目抜き通りの街路樹も色づき、人々はコートの襟を立てて冷たい風をしのいでいる。それでもソラーノ・インク店には朝日がさんさんと降り注ぎ、新しい一日の始まりを祝福しているようだった。
嬉しいことに今日は待ちに待った店休日。いつもであればちょっと手のこんだ朝ごはんを作るところだけれど、今日はそれ以上に楽しみなことがフェリスを待っていた。
フェリスは机に向かい、白い封筒を手にする。昨日の夕方届いたばかりの手紙だ。
寝る前に何度も読み返したのに、フェリスはまるで初めて読むかのように丁寧に便箋を取り出した。
『こちらは木の葉がすっかり色づきました。何度見ても美しい景色です。僕に絵心があればフェリスさんに風景画をお送りするのにと、毎年悔しくなります。そろそろ剣の訓練より本格的に絵の勉強をした方がいいかもしれませんね』
「ふふ。エルナンさんってば」
フェリスは手紙を読みながら、肩からこぼれ落ちた髪を背中に流した。
フェリスにはまだ見ぬ文通相手がいる。
名前はエルナン。彼とはもう五年もの間、手紙のやりとりを続けている。
彼との出会いは偶然だった。
フェリスの両親が健在だった頃、インクの材料を調達するために、家族三人でたびたび遠方まで出かけることがあった。ある日、その道中でフェリスは母親お手製の――しかも、よりによってフェリスの名前と店の住所が刺繍された――ポーチを落としてしまい、それを拾ってくれたのが他でもないエルナンだった。中に貴重品が入っていたわけでもないのに、彼はわざわざ「拾いました」と手紙を添えて郵送してくれたのだ。
それからふたりは、ことあるごとに手紙を送り合っている。
ただし五年の間にエルナンについて知ることができたのは、ほんの僅かな情報だけ。彼が遥か遠くに勤務している騎士であることと、自分より三歳年上の二十三歳であるというふたつのみ。
どんな顔立ちなのか、どんな声なのか。髪の色は? 瞳の色は? どんな性格をしているのか……フェリスは何も知らない。
(今回のお返事はどの色にしよう……)
フェリスが引き出しを開けると、お行儀よく並んだ小瓶が朝日を反射して眩しく光る。これらは全て彼女が作ったインクだ。
店に並べる前の試作品から、エルナンの手紙に返事を書くためだけに調色したものなど、バリエーションはさまざま。
瓶の上で彼女の手が右往左往する。
(今日の便箋は生成りで、金色のフレークが混ざってるから……。うーん……これもいいなぁ……)
どうしよう、ちっとも決まらない。
接客の時は相手の望む色がすぐにピンとくるのに、エルナンへの手紙を書く時はいつも悩んでしまう。選ぶ基準は季節感だったり、その日使う便箋や封筒との相性だったり。書く内容によって決めることもある。
エルナンが自分の手紙を読んだ時に、少しでも「綺麗だな」と感じてほしくて、たっぷりと時間をかけてとっておきの一色を選ぶのだ。
今回も机の上を埋め尽くすくらい瓶を取り出し、便箋と組み合わせてみる。おでかけする時にブラウスとスカートの組み合わせを考えるよりも難しい。
(よし。今日はこれにしよう)
十五分ほどああでもないこうでもないと悩んだ末、フェリスは小瓶の中から、一番気に入っている柔らかい紫色のインクを選んだ。
これはライラックをイメージして作ったもの。筆圧によってピンク色にも見えるよう、何度も調整してできた自信作だ。店に出したそばから売れて、再販希望の声が非常に多い一本でもある。
ラベルに書かれているのは、ライラックの花言葉である「恋の芽生え」。初めて恋を知った女の子にぴったりだと思ってそう名付けた。
見た目からは商売っけがまるでないフェリスだが、インク作りのセンスは抜群に優れている。
両親たちが店に立っていた頃は、黒や紺ばかりを取り扱っていた。しかしフェリスが店を背負うようになってからは、カラフルなインクを並べるようになった。
真珠や宝石の粉を混ぜてキラキラさせたり、お花やコーヒーの香りをつけてみたり……。可愛いものが大好きな二十歳のフェリスならではの発想に、若い女の子たちはソラーノ・インクに飛びついた。今では「フェリスが作ったインクでラブレターを書くとうまくいく」なんて噂まで流れているほどだ。
(もう一度材料を仕入れなきゃね。今日のマーケットにあるかな……)
そんなことを考えながら、フェリスはガラスペンの先端にインクをつけて、「エルナン=パトリオット様」と書いた。
『こんにちは。お手紙ありがとうございます。そちらは随分気温が下がったのではないでしょうか。お風邪など引いていませんか?』
彼が住む北部は、夏こそ避暑地として人気だが、その分だけ王都よりも冬の訪れが早い。体調を崩したりしていないだろうかと思い、書き出しは彼の体を気遣う言葉にした。
『こちらもすっかり秋一色です。お気に入りの赤いセーターが着られるのは嬉しいですが、やっぱり寒くなるのは苦手です。それから秋になると美味しいものが溢れるので困っちゃいますね。特に近くのお惣菜屋さんのパンプキン・パイが美味しすぎて、お店の前を通ると必ず買ってしまうんです』
何気ない近況報告も、そこにエルナン本人がいるかのように詳細に綴っていく。前回の手紙のやりとりから少し時間が経っているので、書きたいことが山積みだった。
最近作ったインクのこと、感動した本の感想、お客さんの話――。全てを書き終えた時には、フェリスの手紙は便箋三枚にもなっていた。
「今回もまたずっしりしてるなぁ……」
封筒がパンパンになる様を見て、フェリスは思わず苦笑した。
エルナンに宛てた手紙はいつもこうだ。プレゼントを同封しているならともかく便箋だけで。
もし彼と会うことがあれば、おしゃべりが止まらないんじゃないかとさえ思う。息継ぎもせずにまくしたてて、彼を困らせてしまいそうだ。
「会ってみたいな……」
フェリスはグレージュの目を閉じて、彼のことを想像する。
なんとなく昔読んだ恋愛小説に出てくる王子さまみたいな人を考えてしまうけれど、もしかしたら、フェリスの二倍くらい大きな体躯の男性かもしれない。
(でも、そんな人がこんなに可愛いお手紙を書いてると思うと、それはそれですごく素敵よね)
フェリスは目を開けて封筒を朝日にかざした。
イメージぴったりでも、全然違ってもいい。住所が刺繍されたポーチを「子どもっぽい」とバカにすることなく律儀に送ってくれたという事実だけで、エルナンの人となりは十分分かるから。
「今回も無事にエルナンさんのところに届きますように」
フェリスは封筒に軽くキスを落とすと、椅子から立ち上がった。