第一章 訪問者
応接間の窓ガラスが、吹きつける強い風にガタガタと音を立てる。
窓から空を見ると、鉛色の雲がものすごい速さで流れていくのが見えた。
「何もこんな季節に呼ばなくてもいいのではありませんの? レンフルーの秋は冷たい雨の季節ですわよ」
ルイーズの心を読んだかのように、すぐ近くにいたジョセフィーヌが父親のグリュイエール伯爵を振り返る。
客人を迎えるため、伯爵はジュストコール、ジョセフィーヌはよそいき用のドレス姿。今日のために作ったドレスは、クリーム色の生地に濃い茶色の糸で葉っぱの模様が刺繍してある、秋らしいデザインのもの。長い髪の毛をドレスと同じ色のリボンで緩くまとめ、背中に流している。
「シカは秋しか狩ることができないからな」
伯爵が鷹揚に答えると、
「レンフルーの森にシカなどいましたか」
訝しげにジョセフィーヌが聞き返した。
「いないと思っていたのか」
「ええ、思っていましたわ」
「おまえが食べているシカ肉はどこからやってくると思っていたんだ」
「てっきり外から購入しているものかと。だってお父様はシカ狩りなんて、なさらないじゃないですか」
「わしがしなくても我が家の猟師が仕留めてくるわい」
「つまりお父様ご自身は、シカが狩れないということですわね」
「そうは言っておらん。雨の中、シカを追う気にはなれんだけじゃい」
「ではなぜ、今年に限って冷たい雨の季節にシカ狩りをしようなどと?」
「おお、それを聞くかジョセフィーヌ! とくと語ってやろう」
「やっぱり遠慮しますわ」
父親を手で制し、ジョセフィーヌが大きくため息をついた。
伯爵父娘の応酬を見ながら、ルイーズは内心で苦笑した。
父娘の諍いの原因は、ディクタール侯爵とその嫡男グレンが、もうすぐここレンフルーにあるグリュイエール伯爵の屋敷を訪れるからである。長年の友人とその息子をシカ狩りに誘ったのだ。よりにもよって、冷たい雨の季節に。
その意図はもう、狩りではなく、デビューして三年も社交シーズンを棒に振ってきた伯爵の娘ジョセフィーヌと、同じく海軍退官後、伴侶を定めることがない侯爵の嫡男グレンとのお見合いにあった。
雨が降れば狩猟に出ることはできない。ということは、客人は必然的に屋敷の中で過ごすことになる。当然、ジョセフィーヌはディクタール侯爵とその息子グレンの相手をせざるを得ない。
ジョセフィーヌに関しては、十八歳の初夏に社交界デビューしてからこっち、社交をサボってきたツケが回ってきたとも言える。
ちなみに、ディクタール侯爵夫人は「雨が降ると古傷が痛むので」という理由で来ていない。
――貴族なら政略結婚が当たり前なのに、それでもジョセフィーヌ様に政略結婚を命じないのだから、伯爵様もお優しいというか、人が好いというか。
恰幅がよく、丸顔で、愛嬌がある顔立ちのグリュイエール伯爵は、見た目同様におおらかで気さくな人物だ。そして、何より、自分の家族を愛している。妻であるマルゴット夫人も大好きだし、独身で適齢期の二人の子ども、二十二歳になる息子のフランツも、二十歳になる娘のジョセフィーヌのことも大好きだ。
だから、フランツやジョセフィーヌに対し、意に沿わない結婚をすすめてくることはなかった。
――そのせいで、ジョセフィーヌ様は三シーズンもお相手探しをサボってしまったものね。
大人の仲間入りをし、社交シーズンを王都の邸宅で過ごせるようになった途端、ジョセフィーヌは興味のあることに片っ端から挑戦し始めた。その中に結婚相手探しは含まれていない。そうこうしているうちに、ジョセフィーヌは二十歳を迎えてしまった。
令息はともかく、令嬢はデビューした年、またはその翌年には結婚相手を見つけることが多い。
ジョセフィーヌ・グリュイエールは、波打つ赤い髪の毛に透き通る緑色の瞳、ミルク色の肌にバラ色の頬、血色のいい唇、整った顔立ちに鈴を転がすような声を持ち、社交界でも美人と名高い。しかも、王国でも名門として名の通っているグリュイエール家の娘。結婚市場での価値は高い。
伯爵が結婚に関心を向けない娘に気が焦るわけだ。
伯爵が前々から「ディクタール侯爵とその息子を狩猟に誘う計画」を練っていたのは間違いないが、娘にディクタール親子が訪れると知らせたのはつい昨日の話。この秋冬のために作ったドレスが「お見合い用」だとも告げられていなかったため、ジョセフィーヌがぷりぷりするのも当然だ。
屋敷の人間たちも客が来るとは知らされていたが、誰が来るのか知ったのはジョセフィーヌと同じタイミングだった。ゆえに、来客の中に「不落の貴公子」として名高いグレンがいると知った屋敷の人間、特に若いメイドたちはざわめいたものだ。
かくいうルイーズもその一人だったりする。
見た目もよく、人柄もよく、元海軍将校であり、次期侯爵。何より、独身。ディクタール侯爵の嫡男グレンは、社交界のみならず、平民にも注目される人物だからだ。
――ジョセフィーヌ様だって、グレン様のことをご存じなのに、まったく興味がないのよね……。
その証拠に、ジョセフィーヌはおもしろくなさそうに窓の外を見つめている。
この国の貴族は、十八歳の春に国王陛下に謁見をして社交界にデビューするのが一般的。社交界にデビューした令息令嬢は、春から夏にかけての社交シーズンは王都に集まり、茶会や夜会などの催しを通して結婚相手を探す。
しかしジョセフィーヌはデビューしたその年からこっち、なぜかあちこちの大学の様々な公開講座に入り浸ったあげく、特に王立大学の微生物学講座にのめり込んで、微生物学研究室にまで顔を出し始めた。
王都にある大学の多くは、社交シーズンを利用していくつかの講座を公開している。啓蒙のためでもあり、スポンサーを得るためでもある。だから、王都に来ている貴族が公開講座を受けることはむしろ奨励されているのだが、社交をそっちのけにするとなると話は別。
とはいえ、その王立大学で微生物学者をしている父を持ち、研究室で父の手伝いをしていたルイーズがジョセフィーヌと出会えたのは、彼女の好奇心があってのこと。
そしてこの出会いがなければ、その年の暮れに父が亡くなり、病に伏せがちな母とまだ幼い妹を抱えて路頭に迷ったルイーズを、ジョセフィーヌが自身のコンパニオン、つまり話し相手として雇ってくれることもなかった。
積極的でちょっと変わり者のジョセフィーヌと、おおらかで娘に甘いグリュイエール伯爵には感謝している。
ルイーズことルイーズ・エパンドは、今年で二十一歳になる。茶色の髪の毛に榛色の瞳と、色合いは実に地味。顔も、まあ十人並みと自負している。華やかなジョセフィーヌのそばにいるので、地味になりすぎないよう気をつけているけれど。今日も明るい緑色のリボンを編み込んで髪の毛をまとめ、リボンと同じ色のデイドレスを着ている。
父が男爵位を持っていたので、一応、生まれながらの貴族ではあるが、父亡き後に爵位を国へ返上したので現在は平民だ。
学者である父を持っていたため、ルイーズは女の子にしては珍しく、一般教養と礼儀作法を学ぶ学校ではなく、大学に進学するための学校を卒業している。だが、母親が「婚期が遅れる」と渋ったので大学には進学せず、卒業後は父の勤務する研究室で父やほかの研究者たちの手伝いをしていた。
男爵家とはいっても、ルイーズの家は祖父が中央銀行の創設者の一人だから男爵の位を授かっただけで、古くからの貴族というわけではない。いわゆる「新興貴族」だ。
祖父はともかく、父は社交が苦手で、身内に貴族がいるわけでもないので、貴族としての世の渡り方がよくわからないようだった。そんな父のもとで育ったため、ルイーズは社交界にデビューしていなかった。
新興貴族が伝統的な貴族社会に入り込むことは難しい。そして父には学者としての才能はあったようだが、資産運用の才能はなく、祖父が築いた財は父の代でほとんど使い果たしてしまった。
その父が亡くなり、近親者に後継してくれる男子がいなかったことから、母と相談して爵位は国王に返上。その代わり、エパンド家はささやかな慰労金を受け取った。今はこのお金とルイーズの収入でやりくりしている状態だ。
つまり、貴族には足りないし、平民として生きるにはたくましさに欠ける。見た目も平凡、ちょっといい育ちなだけの娘、それがルイーズだった。
微生物学研究室でジョセフィーヌと知り合っていなければ、今頃どうしていただろう。
「けれどグレン様って、どうしてお相手が見つかっていないのかしら。海軍を辞めて社交界に顔を出すようになって、今年で二年……三年かしら? 二十六歳と結婚適齢期である上に、夜会にはマメに顔を出していらっしゃるのに。ねえ、ルイーズ?」
ジョセフィーヌが自分のことは棚に上げ、視線を窓の外に戻しながら不思議そうに呟く。
「そうですね……何かいろいろと事情がおありなのでは?」
「そのいろいろな事情とやらが気になるわね。私、不誠実な方とは結婚したくないもの」
ルイーズの返事に、ジョセフィーヌが顔をしかめる。
実はジョセフィーヌ、研究室の若い助手に夢中になっているのだ。もともとは微生物学に興味を持って研究室を訪れたのだが、今は彼に会うことが研究室訪問の目的となっている。
そのため、伯爵が持ってきた今回の縁談は、ジョセフィーヌにとっては有難迷惑でしかないものなのだった。
もちろん、伯爵令嬢とただの研究者とではまったく釣り合いが取れないので、結婚なんてできるはずもない。ジョセフィーヌとて、想いを寄せている彼と結婚できるとは思っていないが、かといって彼への気持ちを隠したまま結婚相手を探すこともできない。これがジョセフィーヌの現状だ。
研究者の彼が人間的に問題あるようならルイーズも止めたのだが、彼は好青年だった。そして彼もまたジョセフィーヌのことを憎からず思っていることがわかっているので、ルイーズとしてはどうしたものかと考えている。
しかしムキになって止めなくても、ジョセフィーヌはどこかで気持ちに折り合いをつけるだろう。彼女は生まれながらの名門貴族の娘だから。