【第1章 いる必要のない宴】
ここはシレンダ王都中央区、フィンドル伯爵家。刻《とき》は深夜の零時に近づく頃。
サロンホールには百を超える貴族が集い、豪華な料理やお菓子、強いお酒を酌み交わしていた。社交界シーズンの今、毎日のようにシレンダ中で見られる景色だけど……今日は少し、趣が違う。
ただの社交界ではなく、仮面舞踏会――誰もが華やかな仮面で顔を隠していた。
これは平常の、コネクション作りを目的とする社交界とは趣が異なるものだ。容姿も家柄も分からなくすることで、純粋に人間同士、会話やダンスを楽しめる。不道徳な目的で行われることもあるが、今夜のそれはあくまで余興。パーティーが始まってずいぶん経ってから仮面が配られたため、ほとんど身元が割れている。
――門前で出迎えた、主催者《ホスト》ならば、全員に。
「おや、まだ門前《こんなところ》にいたのですか――レディ・サニア」
背後から呼びかけられて、私はビクリと肩を震わせた。振り返ると、屋敷を背景に男がひとり、ワイングラスを片手に立っている。黒鉄の仮面で顔を半分隠してはいるが、美しく整えた口髭が特徴的な紳士だった。私はカーテシーをして見せた。
「はい。本日はゲスト様をお迎えし、余興用の仮面をお渡しするのが私の仕事でございます」
「もうずいぶん夜も更けましたよ、宴も終盤です。あなたも宴を楽しまれてはいかがですか、レディ?」
紳士の手が私の肩を掴み、ぐいと引く。私は慌てて首を振った。
「い、いえ、そうはいきません。ここで仮面をお渡ししないと、仮装の意味がなくなってしまいますので」
「もう新たなゲストなんて来ないでしょう。さあ、暖かいところへ行きましょう……レディもそれをお望みでしょう?」
紳士の手が、私の腰をツウと撫でる。全身に鳥肌を立て、硬直した私の耳に唇を寄せ、紳士はそっと囁いた。
「先日の社交界で、あなたの『趣味』を耳に入れました。なんでも無類の美男子好きだとか」
「……えっ?」
「一夜の火遊び、僕ではお相手が務まりませんか? レディ・サニア……」
「っあ――すっ……すみません! 失礼いたします!」
私は悲鳴を上げ、慌ててその場を駆け出した。
あの紳士に対し、無礼だと激怒したわけではない。ただ、素顔《ボロ》が出そうになったから逃げただけ。
今夜の私は、長時間の対話ができない。
なぜなら私は、彼らが思っている女性、サニアではない。その姉――『傷物令嬢』こと、エリザベート・フィンドルなのだから。
社交界シーズンを迎えたシレンダ王国では、毎夜のようにあちこちで夜会が行われている。有力貴族とのつながりを作る絶好の機会で、主催者《ホスト》にとっては一大イベント。家族総出で、最高のおもてなしを準備する。
フィンドル家の次女、サニアは、屋敷の門前でゲストに挨拶するのが仕事だった。それを聞いたサニアは、「えーっ!」と甲高い声で叫んだ。
「いやだぁ、門前って、屋敷の外じゃないの。それに社交界ってお偉いさんばっかり来るってことでしょ? わたしそういうの無理」
「そ、そう言うなサニア……ただ招待状を確認して、中へお通しするだけだから」
「いちいちカーテシーとかしなくちゃいけないんでしょ? 嫌なのよアレ、腰が疲れてきちゃう」
「文句を言うなサニアっ。主催者の家の者がまずお迎えするのが、この国の社交マナーだ。従僕《フットマン》など置いていたら、貴族社会の笑い者だ」
「だったら、リシィお姉様が出ればいいわ!」
突然、サニアは大きな声でそう言った。
私は顔も上げなかった。サニアの提案が蹴られるのが分かっているから。
案の定、父は呆れたように嘆息した。
「サニア……何を言うんだ。無理に決まっているだろう」
「あらぁどうしてぇ? お姉様はこのフィンドル家の長女だし、幼い頃から令嬢教育も完璧でしょう。このドレスも、わたしよりお姉様のほうが似合うと思うわ。血のように赤くて、重くて、可愛くない。『傷物』のリシィお姉様にぴったりじゃない!」
ズキッ――分厚く下ろした前髪の奥で、古傷が痛む。私が俯き、呻いている間に、父と妹の会話が続いている。
「無理を言うなサニア、エリザベートに務まるわけないだろう。アレが顔を見せたとたん、ゲストは悲鳴を上げて逃げてしまう」
「だったらわたしも参加しない。年頃ですもの、パーティーの会場で、素敵な男性のアプローチを待つわ」
「それはゲストが皆到着して、夜が更けてからでいいだろう。受付をしないとパーティーも始まらないぞ」
「うーん……お顔のよい男性は来るかしら?」
「ああ来る来る、いっぱい来るとも!」
こうして、父はうまくサニアを乗せることに成功し、無事にパーティーが開かれた。
最初のうちはサニアも、ちゃんと働いていたらしい。ゲストたちはみな上機嫌で、パーティーを楽しんでいるようだった。屋敷中に響く笑い声、賑わっている様子を、私は厨房で聞いていた。メイドと同じ服装で、煤だらけになりながら。
「ふう、お料理やお酒の進みが早い……本当に盛り上がっているのね」
こうして料理や汚れ仕事を行うのは、いつものことだった。
私が社交界に出ることは許されない。私も重々承知しているので、ただ粛々と、料理を作り続ける。
ところが夜も更けてきた頃、急に父が厨房に飛び込んできた。その手に、サニアが着ていたはずのドレスを持って。
「大変だエリザベート! サニアが逃げた!」
「えっ? ど、どこへ?」
「知らん! とにかく門前がカラッポではパーティーが始まらん。エリザベート、おまえがしばらく場を繋いでくれ」
「わ、私がですか!?」
私は身を竦《すく》ませた。
突然、こめかみのあたりにズキンと痛みを覚えた。幻痛《げんつう》だ、傷は完治しても、傷跡が時々ひどく痛む。
私の顔面には、大きな傷跡があった。額から右側の頬骨にかけて、三日月型の刃物傷だ。
この傷のせいで……正確には傷の原因となったとある事故のせいで、私は家族だけでなく、貴族会の鼻つまみ者だった。誰もが私の顔を見ると、ギョッとして息を呑む。心優しい人は胸を痛め、「そんなに綺麗な顔をしているのに、可哀想に」と慰めてくださる。だけど傷の原因を聞くと、憐れみの視線は侮蔑に変わる。時には酷い言葉で侮辱もされるのだ。
『顔も心も、醜く穢れた傷物』――と。
私は髪を手で寄せ、傷を隠した。この五年間で沁みついた癖だ。だが父は、無理やり私の顔を上げさせた。前髪を毟るように持ち上げて。
「ああそうだエリザベート、おまえが『傷物』でさえなければ、サニアに無理をさせずとも、この家は安泰のはずだった。おまえは公爵令息と結婚し、このフィンドル家を盛り立ててくれるはずだった」
「い、痛っ――」
「それが、何もかも台無しだ! 貴様のせいで!」
前髪が数本、ブチブチと千切れる音がする。涙が滲むほど痛かったけど、私は抵抗しない。しても無意味だから。いつも父は気まぐれで、理由がなくても私を叩く。
「家名に傷をつけおって! 修道院送りにするところを、家に置いてやってるだけありがたく思え!」
「は、い……あ、ありがとうございます……」
「これはその恩に報いる対価だ。消えたサニアの代わりに、門前で来賓を迎えろ。その傷は絶対に見られないように!」
怒鳴りながら、父は私に深紅のドレスを押しつけた。いや、服の上に何かが乗っている。白い鳥の羽がたくさんついた、美しい装飾面だった。
「これは……仮面?」
「ああ、これなら顔の上半分がすべて隠れる。これで傷跡を隠し、サニアのフリをしてゲストをもてなすんだ」
「そ、そんな、不自然ですわ、ホストが仮面を被って迎えるなんて」
「大丈夫だ、ここからは余興だと言って仮面舞踏会に切り替える。ゲスト全員の顔も分からないようにして、おまえはサニアと名乗ればいい」
父は早口でそう言った。それで話は終わりとばかりに背を向けて、厨房の扉に触れてから、もう一度振り返って。
「絶対に、エリザベートだと明かすなよ。その傷跡を見られてはならん。おまえの存在は、皆を不快にさせるのだから!」
乱暴に扉が閉められる。私はただ茫然と、父が消えた後を見つめていた。