プロローグ その王女は婚約破棄をもくろむ
一国の王女であるフローラには、社交デビューとほぼ同時に決まった婚約相手がいる。
婚約者の名前は、シルヴィオ・グレモア〝伯爵〟。
伯爵家の嫡男だった彼は実に優秀で、昨年の二十五歳で爵位を継承した。それは結婚へ向けての準備ではないかと騒がれたが――違う。
フローラから言わせれば、名ばかりの関係なのだ。
彼は、兄である王太子の信頼する友人で、優秀な右腕だった。兄が推薦したことで、国王が婚約を決めてしまったのだ。
王家に生まれた以上、父や兄に言われれば、どんな相手とも結婚する覚悟ではいた。
けれど――なぜ、よりによってシルヴィオなのか。
彼だって嫌だろう。それなのに父に提案された時、ひとまずのところ笑顔で受理したのかと思うと、フローラはほんとに腹立たしい。
シルヴィオは彼女より八歳年上だった。尊敬している兄が笑って話していた相手だったから、どんな人だろうと思って見に行ったら、
「殿下、あの小さいのはなんです?」
「おいおい前に話しただろ……僕の妹だよ」
目が合って数秒、フローラは彼が嫌いになった。
年月が過ぎても、ずっと『小さい』扱いだった。男性の彼と違ってフローラは女性なのだから、身長で追い抜けるはずがない。
「というかっ、成人したあとも身長が伸びる人がいる!?」
クッションを放ったフローラを見て、そろそろ訪問時期かと気付き、先日のやりとりを思い出した侍女たちが苦笑いを浮かべた。
「殿方は二十歳くらいまではありますわ。アルベリク王太子殿下もそうだったかと」
「お兄様はいいの! 私だって身長は伸びたのに、シルヴィオとの差が開きすぎてまた『小さい』って……っ」
悔しい。十八歳の誕生日を迎えて、フローラは成人した。
身長だって、――まぁ、あと数センチでは女性の平均に届く。
だというのにシルヴィオは、昔と変わらず今もフローラのことを子供扱いだ。兄が乗馬しているので真似したくなっただけなのに、小さいので無理だとか王女殿下は周りを心配させていいのか……などとくどくど言ってきた。
「また今日もお顔を出しにこられそうですものね」
「殿下、よかったですわね」
何もよくない。
面倒臭いのに婚約者の肩書きで立ち寄ってくるシルヴィオの顔なんて、見たくない。
(今日で終わらせるわ)
この名ばかりの関係を終わらせて、彼が嫌々顔を見にくる機会もなくしてやるのだ。政略結婚なら彼以外とする。
そんなフローラの計画を知っているお付き侍女のミラは、見目麗しい婚約者を眺められると後輩侍女たちの話にも加われず、胃をきりきりとさせていた。
第一章 王女殿下は、不本意な婚約をした年上伯爵へ親切にも突きつける
ジェレスティル王国の第一王女フローラが、先月に十八歳を迎え成人した。
プラチナブロンドの髪が大変美しく、高貴なレモン色の瞳をしている。そんな我らの姫君がそろそろ嫁ぐのかと、大勢の紳士たちが失恋のごとく嘆いている――らしい。
「そんなの嘘よ、ありえないわ」
妹的な存在であるソシエンヌの話を、一通り聞いてあげたところでフローラはズバッと言った。
「大変美しいのは本当なのですけれどね……」
私室で彼女のそばに控えているお付き侍女のミラが、ぼそっと呟いた。
とはいえ本を片手に持ったまま、クッキーをぱくぱく食べている姿は世の紳士たちもまったく想像していないことだ。
向かいの長椅子に腰かけているソシエンヌも、姫っぽくない様子に呆れている。
「フローラ様ったら、わたくしが来たのにまだ本を読むの?」
「待ってっ、あともう少しで切りがいいところだから! 今日の後半はお母様との公務で読む暇がなくて」
「ふうん? 戦記とか難しい推理ものを面白いと思うなんて、さすがわたくしの尊敬するフローラお姉様だわ!」
ソシエンヌがティーカップを置き、続いてカヌレを取りながら言う。
「それで? 成人のお祝いも済んで一ヶ月経ったでしょ、結婚も秒読みじゃないかと噂されているけど、そこはどうなの?」
「あるわけないじゃない。結婚話が出たら出たで、めちゃくちゃ抗議してやるつもりよ!」
怒り心頭のフローラを見て、ソシエンヌは勇ましいと褒める。声を聞いた侍女たちが廊下から顔を覗かせ、ミラが額を押さえて歩み寄った。
「殿下、シルヴィオ様もお忙しいのですわ」
その際に顔を出してくるので頻繁だ。しかし、そのたび言われるのは嫌味である。
用がないのなら顔を出すな、と彼に何回言ったか分からない。
「忙しい云々はいいとしても、今の状態のまま結婚したって引き続きこんな感じよ。私が不幸になるとミラは思わないの?」
「うーん、それはどうでしょう……ほら、婚約者にとしても訪れる回数も多くて気遣いを感じますし、仕事もよくできて将来性があるお方ですし」
ミラが説得みたいに言ってくる。フローラは肩をがっくりと下げた。
シルヴィオは使用人たちからも、仕事ができる男で浮気も絶対にしそうにない有望株だ、とかなり評価が高いのだ。
昨年に爵位を継ぎ、現在二十六歳のシルヴィオ・グレモア伯爵。
城勤めだった頃から、堅実貴公子として人気があった。とても美しい男だと城や社交界でも騒がれ、そのうえ積み重ねた信頼は強力だ。
宰相補佐で下積みをし、実力から王太子の補佐官として抜擢。
爵位を継いだ現在も、王太子から絶大な信頼を置かれて優秀な右腕として活躍している。
その時、ソシエンヌが頼もしい目を向けて抗議した。
「ミラったら、仕事ができるだけじゃだめなのよ!」
「ソシエンヌ様!」
フローラの唯一の味方は、自身も美少女のためか外見で贔屓しない従姉妹のハーベライト公爵家の令嬢、ソシエンヌだ。
「結婚したら屋敷の中でずうっと一緒なのよっ? 義務としての子作りだってするか分からないのに嫁ぐなんて不幸よ、わたくしだってその人のために尽くすとかできないわ。フローラ様はどう?」
「できないわ! 無理っ」
そもそも、この婚約自体おかしいのだ。
社交デビューを迎えてすぐあと、急にぽっと出てきた縁談だった。知り合いではあったけれど、彼は兄である王太子アルベリクの友人というだけだ。
フローラは、兄のところで彼の顔を見る程度だった。
むしろ授業の合間を縫って兄の執務室へ行くたび、堂々『この小さいの』と言えた肝の太いこの男がいてイライラしていた。
シルヴィオは宰相のもとでの評判が非常によく、多忙な業務の合間で王太子の執務まで手助けした。その手腕を周りに認められ、城勤めから一年もかからず兄の第一補佐官に抜擢されたのだ。
『なんでまたいるのー!?』
『露骨に嫌な顔をされておいでですね。俺がいては不満ですか、そろそろ兄離れをなさったらどうです?』
『不満よ! そして子供扱いしないでちょうだい!』
いや、子供だったけれど。
フローラは、兄に褒められたくて通っていた日々を思い返す。
そもそも姫の身分である彼女が話せた異性なんて、当時はシルヴィオくらいだった。一国の姫として作法や教養を身に着ける方が先でもあった。
だが、貴族たちと本格的に交流を取る社交デビューを迎えたら、縁談探しのために大勢の異性と交流しなくてもよいと父である国王に言われたのだ。
『これで可愛いフローラの負担も少しは減ると思うと、父も嬉しいぞ』
『……えーと、お父様? 今、なんとおっしゃいましたの?』
『聞こえなかったのかい? そこのシルヴィオが、お前の結婚先を引き受けてもいいそうだ』
王の間に呼び出されたフローラは、それを聞いて唖然とした。
どうやらフローラの知らぬ間に兄が勧め、国王が検討して臣下たちの全賛成を受け――そしてグレモア伯爵家嫡男のシルヴィオとの婚約が結ばれたのだ。
国王からの提案を断れる立場ではなかったので婚約したのは分かっている。
いつも〝兄のついで〟で顔を出された。見え見えで余計に腹立たしいので、嫌だったなら初めから放っておいてほしい。
「私、婚約の取り消しに動こうと思うわ」
「あれを実行するのね!? じゃあ、私はそのあとで協力すればいい?」
「ええ、私がフリーになったら、お兄様やお父様のためになりそうな結婚相手を一緒に考えてちょうだい」
十八歳と言えば、とうとう結婚することになってしまう。
そこでフローラは、父に相談して婚約破棄することを考えていた。先にソシエンヌには協力を求めて打ち明けていた計画だった。
シルヴィオは今や伯爵で、フローラだって大人の仲間入りをした。
今なら、父も二人の意見も受け止めて考え直してくれるのではないか。利益がある別の相手との婚約を彼女から提示すれば、父の負担だって減って、うまくそちらにチェンジされるかもしれない。
「そう、うまくいきますでしょうか……」
ミラが改めて不安そうな顔をした。
「私の計画、ばっちりでしょう? 何かいけないところでもあった?」
「いえ、その、我が国は安定していますから、利益による結婚の強行は陛下も王太子殿下もなさらないかと……」
「でも、利益があった方がいいでしょ?」
フローラの相手は、何もシルヴィオでなくとも構わない。国が安泰であるからこそ、繋がりを欲しがる外国の王侯貴族だっているはずだ。
「殿下はしたたか、いえお強く成長されましたね」
「あのシルヴィオとずっとやり合ってるんだから、当然でしょ」
勝ったことはないけれど。
そんなやりとりをしているそばで、ソシエンヌが感銘を受けてぷるぷる拳を握った。
「覚悟が凄いわっ、それでこそ私のフローラ様! 頑張って!」
「任せといて! 次に来た時が、シルヴィオの婚約者面の最後よ!」
二人が揃ってハイタッチする。
「殿下、姫が『面(つら)』なんて言わない……」
ミラは、胃が痛そうに腹をさすっていた。