「じょ、冗談はやめなさいっ! エドガー!」
「冗談じゃないから、やめない」
ちゅ、ちゅ、と音をたて、耳朶をねぶるように甘く弄ばれる。密着した体温と耳にかかる熱い吐息に、腰のあたりがぞわぞわと震えた。嫌悪感ではなく、力が抜けるような甘い震えだ。心臓がおかしな音をたてて、肌が内側からかぁっと熱くなる。
「ほんとに、やめ……んっ」
瞬間、唇を奪われた。上の唇を甘く吸い上げ、それから下唇を味わうように、何度も何度も吸い上げる。
「や……ん、エドガー……」
「もっと呼んで。俺の名前」
ばか、と思わず叫ぼうとした隙に、舌が歯列を割って入ってくる。ジャスミンの舌に彼の舌が絡みつき、熱く吸われて、口のなかを余すところなく犯される。頭の芯が痺れるような激しいキスだ。
「ん、や……待って、は……んッ……!」
息も絶え絶えになり、あまりの苦しさにエドガーの上衣にすがりつく。
「先輩、首まで真っ赤。かわいい」
跳ねのけようとしても、力では到底エドガーには敵わない。
「こんなの、エドガーじゃない……!」
「こっちが本当の俺ですよ」
でも、と言葉を区切り、エドガーはその緑の瞳に仄昏い色をたたえて微笑んだ。
「先輩」
吐息のようにささやいて、エドガーがさらりとジャスミンの髪に触れる。
「俺、犬でも弟でもないんです。男だってこと、とろとろにして思い知らせてあげますよ」
***
「全員整列っ!」
青空のもと、ジャスミンの号令で二十人の青年たちが背筋を正し、横一列に整列する。
二十代前後の彼らが若々しくまとうのは、前面に横向きの飾り紐が何段も連なった、いわゆる肋骨服と呼ばれる華やかな軍服だ。肩を覆う肩章は金のモール、ボタンも飾緒も金、上質な革のロングブーツに、腰には紋章入りの剣を提げている。
これは王室を警護する、栄えある王立騎士団の制服である。
正面に立つジャスミン・スノーシルも、長い髪をぴっちりとまとめ上げ、彼ら同様――いや、彼ら以上に装飾の多い上衣をまとっていた。ジャスミンは彼ら若手騎士をたばねる小隊長という立場なのだ。
「抜剣、掲げ!」
号令に合わせて騎士たちがそれぞれ剣を抜き、胸の前に掲げる。ジャスミンは厳しいまなざしで、彼らひとりひとりをチェックして歩いた。
「キアン、もっと背筋を伸ばして! 背には一本鋼鉄の筋が通っているイメージを! ジョン、剣に曇りがある! 剣は騎士の魂だといつになったら理解できるの! エドガー、胸のホックがゆるんでいるわ!」
指摘すると、それぞれがかかとを鳴らして歯切れよく返事をする。全員を見回ったあと、ジャスミンはふたたび彼らの正面に立った。
「騎士団は王家の盾であり剣であり、象徴である! ささいな姿勢の乱れ、剣の曇り、取るに足らないホックひとつが、王家の顔に泥を塗るのだということをしっかり胸に刻みなさい! では次、剣技の鍛錬を――」
「先輩!」
さっと挙手したのは、ホックのゆるみを指摘されたエドガーだ。
淡い金髪に緑の瞳、すっと整った鼻梁で端整な顔立ちをしているが、人懐こい表情のせいか、とてもやわらかい印象を与える青年だった。
「エドガー、先輩ではなく隊長と呼びなさい」
すこしあきれながら注意する。エドガーはいつもこうだ。ジャスミンのもとに配属されて一年になるが、いまだにジャスミンを隊長とは呼びたがらない。
エドガーは反抗するでもなく、ふんわりとした笑顔で「スノーシル隊長」と言い直す。
「俺と手合わせをお願いします」
剣を胸に掲げたまま微動だにしなかった騎士たちが、エドガーの言葉に顔色を変えてどよめいた。
それを目で制してから、ジャスミンは「いいわ」と答えた。久しく彼らとは手合わせをしていない。
「ひとりずつ相手になりましょう。ああ、エドガーは最後よ」
言うと、明らかに喜びを浮かべていた表情が曇る。
「……ええ、意見した罰ですか?」
「いいえ、相手をするのに時間がかかるからよ。このなかで、あなたが一番手ごわいから」
エドガーは、ジャスミン指揮下のなかでもっとも剣技に優れている。負ける気はまったくしないが、それでも他の者を待たせることになるだろう。説明すると、エドガーはぱっと顔色を明るくした。その少年のような反応に、思わず「よしよし」と弟の頭を撫でるときのような満面の笑みを出しかけて、ハッとする。
こほん、と咳払いで表情をごまかして、ジャスミンは騎士としての顔をつくり直す。
少年に自分の弟を重ねて見てしまうのは、ジャスミンの悪い癖だ。そもそもエドガーは少年ですらない。
「十回敗退した者から自分の馬の手入れに向かうように。さあ並びなさい!」
十回ですか!? と悲鳴のような声が上がった。
「そうよ。もし私が一回でも負けた場合は、そこで終了。私が残りの馬たちの世話をするから、みんな詰所に戻っていいわ。警邏に出るまで自由時間よ」
「いや、無理ですよ!」
「『鋼の女騎士』に誰が勝てるっていうんですか!」
いつまでもごねて先頭を押しつけ合っているので、それらをひと睨みにする。若い騎士たちは顔色を悪くしながら、ようやく列をつくった。
ジャスミンはちろりと唇を舐めて、剣を抜く。陽光に冷たく輝く剣身に刻まれているのは、バラの紋章。剣術に優れたごく一握りの騎士だけが与えられる、栄誉の証しだ。
「さあ、かかってきなさい!」
王立騎士団の前庭に、剣を交える重い金属音、そして若い騎士たちの悲鳴が響き渡った。
「えげつないことしますね、先輩」
敗退した者から馬の手入れにと言ったのに、死屍累々、汗だくで伏して動かなくなった騎士たちの尻をひっぱたく勢いで厩舎へと追い立てていると、ひとり飄々とした表情のエドガーがそう話しかけてくる。
「ひと思いに降参させてしまえば済むのに、ぎりぎり相手が受けられるような剣筋で延々と翻弄するなんて。そんなの十回もやらされれば、そりゃみんなああなりますよ」
「先輩じゃなくて」
「はい、スノーシル隊長。――あぁ、でも悔しいな。今日もまた一本も勝てなかった」
「あなたみたいな若造に負けてはこっちが困るわ」
ジャスミンは三十路一歩手前、エドガーは二十歳から一歩踏み出したばかり。積み上げてきた研鑽の量が違うのだ。
けれどもエドガーは不服そうに軽く唇を尖らせる。
「若造なんてやめてください。俺と先輩、そんなに変わりません」
「八歳も違うでしょう。それに先輩じゃなくて」
「スノーシル隊長」
悪びれもなく言い直す。だめだこれは、とジャスミンは半ばあきらめた。一年経っても頑としてこれでは、この先もずっと正す気はないのだろう。
エドガーは貴族だから、非貴族であるジャスミンを隊長とは認めたくないのかもしれないとも思う。よくあることだ。
ジャスミンは庶民に開かれた騎士養成学校の狭き門をくぐり抜けてきた、いわゆる叩き上げの騎士である。
家督を継げない貴族の次男三男が、パブリックスクール卒業後に推薦でつるっと入団することが多い騎士団において、浮いた存在であるうえ、性別は女である。従いたくない気持ちは理解できた。
(まあ、そのわりにいっつもこうして私のあとをついて歩くんだけど……)
騎士団の詰所へと向かうジャスミンのあとを、今日も今日とてエドガーがうれしそうについてくる。まるで飼い主のあとを追う犬のようで、ジャスミンのなかでは完全にエドガーはわんこ認定されていた。
実際、ジャスミンが昔飼っていたわんこと毛色がまったくおんなじだ。淡い色をしたやわらかそうな金髪は、どこをどう見ても愛犬ロン(故・十歳)を連想させる。叱ればしゅんとして、褒めればほくほくとわかりやすく喜ぶところも同じである。
「エドガー、あなたついてきているけれど馬の世話は?」
「朝のうちに終わってます。俺、早起きなので」
たしかに、エドガーの起床は早い。馬の世話が済んでいるかいないかは日によってまちまちだが、宿舎ではジャスミンが起きる頃、遠く窓の外に姿を見ることが多いのだ。
「警邏に出るまでには時間があるから、自室にいてもらって結構よ」
「いえ、先輩の仕事手伝いますよ。俺ヒマですから」
「ヒマなら寝る時間を増やしたほうがいいわね。今日は剣の握りがちょっと甘かったわ。あなたらしくもない。身体をきちんと休――」
言いさして、もしやと思う。
「エドガー、ちょっと手を見せて」
命じると、エドガーはあからさまに狼狽した。
手袋のはめられた両手を、わずかに身体の後ろに隠すようなしぐさを見せる。強く視線でうながしても動かない。
埒が明かない。ジャスミンはエドガーの腕を取り、強引に手袋をひきはがした。
「! エドガー、これ……」
現れたのは、肉刺だらけになり、すっかり血の滲んだ手のひらだった。
やっぱり、と思う。
エドガーの早起きは、ひとりで鍛錬をくり返すためのものだったのだ。
「……どうりで。ここ半年くらいでぐんと剣技が上達していたから感心したのよ」
しかし、やりすぎだ。
エドガーはきまり悪そうに視線を斜めにうつむける。
「ここまでしたのに、結局、先輩に勝てませんでした。情けないです」
「なに言ってるの。伸びがいいもの、いずれ追いつかれるわ」
先ほども、他の若手騎士たちは鍛錬の意味をこめて翻弄したが、エドガーにはできなかった。そこまでの余裕を持てなかったのだ。結果はジャスミンの全勝ではあったけれど。
「ほんとうですか?」
「もちろん」
褒めると、エドガーは目をぱっと輝かせた。「やったー!」と飛びつこうとするので、一本指でそれを制する。
「はいはい離れて。お座り」
「俺人間なので、気をつけじゃダメですか」
「じゃあ気をつけ」
言うと、エドガーはびしりと背筋を伸ばして直立の姿勢を取る。OKだ。
「さ、エドガー。医務室に行くわよ」
ついてきなさい、と命じて颯爽と歩き出す。