【1】 存在感のない少女、ブランシェ・エバン
『そうですよね。殿下だって人間ですものね。疲れてしまうお気持ち、わかります』
まさか、その一言が運命の分かれ道だったなんて。
ただその言葉だけで、地味で存在感のなかった自分が、この国の王太子に認識されるなんて。
人生とはどんな些細なことがきっかけで、いつ大きく世界の色を変えるかわからない。
「おも、重いですから殿下……! おろしてっ、おろしてくださいっ!」
「何を言うブランシュ嬢。君は羽のように……とまではさすがに行かないが、薔薇園から王宮《ここ》まで抱いて運んできてもまったく腕が痺れないほど軽いぞ。ちゃんと食べているのか?」
「食べてます! 食べてます! お肉大好きですうぅぅぅ!」
どうして。どうしてこんな展開に。
なぜ、自分は今夜初めて言葉を交わした王太子の腕の中にいるのか。
もがいてもビクともしない逞しい腕に囚われながら、ブランシュは自分の現状に目眩を起こしそうだった。
◆◇◆
生まれた時から、ブランシュ・エバンズ伯爵令嬢は存在感のない少女だった。
平凡な栗色の髪に、控えめな若草色の瞳。
ソバカス一つ、ニキビ一つない白い肌も、無難に整った目鼻立ちも。他の少女が持っていれば美点になったかもしれないが、ブランシュにかかれば逆に無個性に拍車をかける要素にしかならなかった。
さらには外見だけでなく。彼女は性格も突出したところがなかった。
兄、姉、弟、妹の間に生まれた次女という立場がブランシュの内面も決定づけたからだ。
みなの和のために決して我を主張せず。
優秀で両親からも頼りにされている兄たちと、元気いっぱいで天真爛漫に愛される妹と弟に挟まれ、自分は彼らの潤滑剤の役割を果たす。
そんなふうに、彼女は個性も存在感もパッとしない少女として育った。
あまりに存在感が薄すぎて、家族でバカンスに行こうとすればうっかり屋敷に置いていかれそうになり、家族で観劇に行けばうっかり劇場に忘れていかれそうになることなど、日常茶飯事だった。
幼い頃に一度。本当に街に一人で取り残されてしまい自力で屋敷までたどり着いたことは、ある意味いい人生経験だったと今になっては思う。
それくらいしか、自分の人生には刺激的な出来事がなかったから。
そして思春期に入ってからもブランシュの存在感が増すことはなく。
『――あら、ブランシュさんいらしたの? あまりにも静かだから今日のお茶会はいらっしゃらないのかと思って、わたくし貴女のぶんのお茶とお菓子は用意してないの。困ったわ』
『――先日みなさんと見に行った歌劇は本当に素晴らしかったわよね。さすが王都で一番の評判なだけあるわ。……あら? ブランシュさんのことは誘わなかったかしら? 来ていらっしゃらなかったのは、ご都合が悪いからだと思っていたの』
故意なのか偶然なのか。
とにかく、華やかで場の中心になるようなご令嬢たちからは、存在ごと忘れられる日々を送ってきた。
同性のご令嬢相手でその始末なのだから、当然、魅力的な殿方たちとのご縁などもっとあるはずがなく。十八歳になった今もブランシュに来る縁談は一つもなかった。
(……だから、社交場《パーティー》にもなるべく出席したくなくて家に引きこもっていたのに)
しかし、今日はこの国――アゼルサス聖王国の王太子、クロヴィス・アゼルサスの二十一歳の誕生祭だ。
いかに華やかな場が苦手なブランシュと言えども、出席しないわけにはいかない重要なパーティーだった。
王宮で一番大きなホールは煌びやかに飾り付けられ、王太子と縁を繋ぎたい貴族で溢れている。
壁の花になっているブランシュからはクロヴィスの姿はほぼ見えないが、時おり人垣の向こうに覗く彼の金の髪がキラキラと輝いていた。
この場にいる、ブランシュ以外の令嬢の熱い視線を一身に集めるクロヴィス・アゼルサス王太子。
太陽と黄金を合わせて溶かしたような金の髪と、深い海を思わせる青い瞳。
この国の至宝、生ける宝石。そう称される彼は、その美貌だけでなく中身も完璧な理想のプリンスだ。
武芸に秀で、聡明。
その長身から繰り出される剣技はまるで舞踏の如く優雅で、見ていた令嬢たちが興奮のあまり失神したという逸話まである。
爵位を持たぬ者にも分け隔てなく優しく接し、孤児院を視察した際には彼の服を汚してしまった子供を寛大に許し慰めた。
品行方正で誰もが彼に憧れるクロヴィス・アゼルサス。
今日一緒に王宮に来ている姉によると、今夜は普段以上に彼の周りの取り巻きが多いらしい。
(今日は殿下の妃候補探しのためのパーティーだって噂もあるものね)
しかし。ブランシュはそんな完璧なクロヴィスに少しも興味がなかった。
地味な自分ではクロヴィスに釣り合わないとか、彼の妃の座を狙っている令嬢が強者揃いだとか。
そういう状況から、王太子の妃選びが自分とは無縁の話だと思っているというのもあるが、そもそもクロヴィスはブランシュの好みからかけ離れていた。
人は自分にない魅力を持った存在に惹かれるのだという。
だからだろうか。ブランシュも、小説や劇などを見て好きになるのはいつも強烈な個性を持った悪役だった。
特に彼女が気に入っているのは、人間の王女に恋をした闇の王の物語だ。
漆黒の髪と深淵の瞳の闇の王は強引に、そして蠱惑的に王女を誘惑し死へと誘おうとする。
しかし王女が手を取るのは清く正しい隣国の王子で。
闇の王は王子の光の剣に切り裂かれ消滅してしまう。
――自分が王女だったら闇の王の求愛を受け入れるのに。
(たとえそれが現世での死を意味しているとしても、あんなに熱烈に誰かに求められるってとてもロマンチックだわ)
闇の王に夢中になって小説の頁をめくったブランシュにとって、クロヴィスは無味無臭で面白味のない男性に思えた。
(きっと殿下は闇の王みたいに女性に強引に迫ることなどなさらないわよね。王女が選んだ隣国の光の王子みたいに、清廉潔白な方だもの)
それにしても退屈だ。
瞳の色に合わせて控えめな淡緑のドレスを着たブランシュはすっかり壁と同化していて、彼女に声をかける者など誰もいない。
(お姉様は誰か素敵な男性を捕まえなさいなんて言うけれど……)
ブランシュと違って明るい蜂蜜色の髪をした華やかな姉は、次々とダンスを申し込まれて忙しそうだ。
(そう言えば、王宮には素晴らしい薔薇園があるのよね。今夜は招待客は庭園に自由に出入りできるみたいだし、せっかくだから綺麗な花を見て帰ろう)
パーティーには兄も出席しているし、姉に不埒なことをする不届き者は現れないだろう。
そう考えたブランシュは賑わうホールをそっと抜け出した。
*
「……はぁ、薔薇のいい香り。それに星もなんて綺麗なの」
甘い芳香と色とりどりの薔薇に囲まれたガゼボ。
熱気と様々な思惑が渦巻くホールから離れた薔薇園の、さらに奥にあるこの場所はとても静かだった。
「とても素敵な場所なのに誰もいないなんて。本当に今夜の招待客はみんなクロヴィス殿下がお目当てなのね」
人目がないのをよいことに、ベンチに腰かけたブランシュはぐっと背伸びをして緊張をほぐす。
「今日のパーティーは殿下のお誕生日のお祝いだから、きっとまだまだ終わらないわよね……」
エバンズ家の迎えの馬車が来るまで、きっとまだ数刻はあるはず。残りの時間をどうやって潰そうか。
ホールにいてもすることのないブランシュは憂鬱そうにため息をつく。どうせ自分は抜け出したことさえ気づかれていないだろう。
「この薔薇園は入り口に衛兵さんが立っていて安全そうだし、もういっそ終了の時間までここにいるのもいいかも」
今日は暖かい夜で、そよそよと頬に当たる風が気持ちいい。
王子の妃選びには興味のないブランシュも、やはり熱狂した空気に当てられいつもと違う気分になっていたのか。大胆にヒールを脱いでベンチの上にころりと横になった。
「もしお姉様とお兄様に見つかったら、はしたないって怒られちゃうわね。それとも『ブランシュがそんなことをするなんて!』って目を丸くするかしら……」
あぁ、本当にこの場所はなんて心地がいいのだろう……。
そうウトウトしていたブランシュを、パチリと覚醒させる声が耳に飛び込んできたのは瞼が完全に閉じそうになった時だった。
「――クソッ! 私益を肥やすことしか頭にない、薄汚い強欲な金の亡者どもめっ。誰がお前たちの娘のような脳内花畑の思慮の浅い女などと結婚するものか……!」
怒気を孕んだ、空気を切り裂くような冷たい声。
その押し殺した低い叫びが、ブランシュのすぐ上から聞こえてくる。
そろそろと頭だけを動かし声の主を見れば、輝く金髪の男性がベンチのすぐ横の柱に拳を打ちつけていた。
どうやら彼は、ベンチに寝そべっていたブランシュの存在に気がついていないらしい。
白い衣装を身につけた広い背中からは、彼の怒りがゆらゆらと揺れているようだった。
どうしたらいいのだろう。
自分は今、どうするべきだろうか。
ブランシュが自分の次の行動に迷っている間に、さらに彼は拳を柱へと叩きつける。
「あぁ! すべてが煩わしいっ!」
ガンッ! という音ともにビリビリとした震動がブランシュの寝ているベンチにまで伝わる。
あんなに激しく柱を叩いて彼の手は大丈夫だろうか。
身分ある人の正装らしく、白い手袋を身につけてはいるが、痛くないはずがない。
「……あの、あまり叩きすぎると怪我をしますよ。何か嫌なことがおありになったのですか? 私でよければお聞きしますわ。って、あの、突然こんなことを言われても困りますわよね。私、よく妹や弟たちの仲裁役や悩み相談をしているんです。だから――」
だから話を聞くのは得意なんです。
そう言いかけた言葉は、最後まで言えなかった。
なぜなら、ブランシュの存在に気づいて勢いよく振り返ったその相手が、この国の王太子クロヴィス・アゼルサスだったからだ。