第一章 没落寸前令嬢、元護衛騎士に求婚される
「おぉ、そうだそうだ。キミだ」
にっこりと笑ってはいるものの、その目の奥にこもった確かな情欲。
その感情に伯爵令嬢ウィルダ・キュンツェルは身を震わせた。
対面のソファーに腰掛けているのは少々、いや、かなりぽっちゃりとした年配の男性。
彼はたくわえたあごひげを撫でながら、ウィルダの全身を吟味するように見つめてくる。とても不快だった。
「……存じていただけて、光栄でございます」
しかし、その気持ちを必死にねじ伏せウィルダはそう告げ、よそ行きの笑みを浮かべた。
その際に、ウィルダのさらりとした金色の髪が落ちてくるが、そんなこと気に留めるような余裕などない。
「いやぁ、まさか私のお気に入りであるキミの家が偶然こんなことになっているなんてね」
わざとらしく『偶然』の部分を強調しつつ、男性がにんまりと笑う。
それさえも気持ちが悪く、ウィルダはそっと目を伏せてしまった。
ウィルダの目の前にいるのは、イーサン・ボーナムという名前の男性である。このノーリッシュ王国で長い歴史を持つ侯爵家の現在の当主であり、年齢は六十。社交界では『好色な老人貴族』で通っており、有り余る金を使って女性を数多く囲っているという悪い噂の絶えない人物。
そんな彼は数年前に妻を亡くしており、年若い後妻を探しているというのはとても有名な話だった。
「それで、だね。私としてはウィルダ嬢をぜひ私の妻にと思っているんだよ」
ふんぞり返ったイーサンは、そう言ってウィルダの隣に腰掛ける父クラークに視線を向けた。
数年前から病で床に臥せってしまった父は、こんなにも儚げな男性だっただろうか。
ウィルダがそんなことを思っていれば、父は「……時間を、ください」と今にも消え入りそうなほど小さな声で言う。
「……ほぅ、考える余裕があると?」
イーサンはそんなことを言いながら、露骨にクラークを見下す。
それにウィルダが気を悪くしたのにも気がつかずに、イーサンは「このままでは、おたくは間違いなく没落する」とうんうんと首を縦に振りながら続けた。
「この私が、ウィルダ嬢と引き換えに貴方の家を救ってやろうと言っているんだ。素直にうんと言えばいいものを」
苛立ちを隠さずに、イーサンは指をとんとんとテーブルにぶつけながら、そう告げる。
だが、父も引くに引けないのだろう。彼は「……娘には、娘の人生があります」と言って目を伏せる。
「ウィルダにも、選ぶ権利があります」
「ほぅ」
「私たちが勝手に結婚を決めるわけには、いきませんから」
ゆるゆると首を横に振りながらそう言った父に対し、イーサンは一体なんの感情を抱いたのだろうか。
彼は杖を手に取ると「じゃあ、私は一旦帰ろうと思う」と言いながら立ち上がった。
「ウィルダ嬢。どういう選択が正しいのか。賢いキミならば、分かるよね?」
最後にウィルダの耳元でそう囁いたイーサンに対して、ウィルダはぶるりと身を震わせてしまった。
◇
イーサンがいなくなった応接間にて。
ウィルダは父のことをまっすぐに見つめていた。
そうすれば、彼は「……悪いな」と言って頭を下げてくる。
「いえ、お父様が謝ることではありません。……悪いのは、すべてお兄様でございます」
淡々とウィルダがそう言えば、父は「……そう、かもしれないが」となんとも歯切れの悪い返事をした。
その言葉を聞いて、ウィルダは心の中で「はぁ」とため息をつく。
(もう、三カ月も前なのね)
兄が投資詐欺に引っ掛かり、多額の借金をこさえてから、早くも三カ月が経ってしまったのか。
まったく、時の流れとは残酷でなんとも言えない。
そんなことを思いつつ、ウィルダはさめざめと泣き続ける母ケイリーに視線を向けた。
「お母様。もう、泣かないでくださいませ」
「で、ですがっ!」
母の気持ちも分からなくはない。ウィルダだって、好色だと有名な老人貴族の後妻など絶対にごめんである。
けれど、借金が返せない以上ウィルダがイーサンに嫁ぐことが最も望ましいことだということくらい、分かっている。
……それくらい、嫌というほど理解している。
「……まぁ、とにかく。ウィルダ。キミはキミの道を行きなさい」
「お父様」
「私たちのことなど気にもせずに、結婚が嫌だと突っぱねたっていい。そうしたところで、私たちは誰もウィルダを責めない」
父のその言葉に、ウィルダはその紫色の目をそっと伏せる。
そんなウィルダを見つめながら、父は「さて、とにかく」と言って手をパンっとたたいた。
「とにかく、ボーナム侯爵に頼らなくてもいい方法を、考えねばならんな」
「……そう、ですね」
その言葉は、ありがたいはずなのに。
ウィルダからすれば呆れてしまうような発言でもあった。
(まるで、小さな女の子が白馬に乗った王子様に憧れるかのような)
つまり、一言で言えば夢見がちなのだ。
そう思うからこそ、ウィルダはにっこりと笑って「一人になりたいので、失礼いたします」とだけ告げ、応接間を出ていった。
そのままの足で私室に戻り、ウィルダは後ろ手に扉を閉める。その瞬間、床にへたり込んでしまった。
そうすれば、部屋の掃除をしていたのであろう、侍女のマリーが「お嬢様?」と声をかけてくる。なので、ウィルダは「なんでもないわ」とだけ告げ、首を横に振った。
現在、キュンツェル伯爵家にはほとんど使用人がいない。ウィルダの兄アイザックがこさえた多額の借金のせいで、給金がほとんど払えないためだ。
そのため、侍女であるマリーが掃除などもすべて引き受けてくれていた。
元々はウィルダの専属侍女である彼女は、嫌な顔一つせずにメイドの仕事もすべて引き受けてくれている。
「そういえば、マリー」
マリーに心の中で感謝をしつつ、ウィルダは立ち上がり移動する。そして、ソファーに腰掛ける。
このソファーも、売ればちょっとはお金になるのかな……と思ってしまうのは、どうしてなのだろうか。
(ダメね。これは十歳の誕生日にお祖父様に買っていただいた思い出の品だもの)
しかし、そう思いなおして誤魔化すように首を横に振った。
「どうなさいましたか、お嬢様?」
マリーが窓を拭きながらそう問いかけてくる。
人手が足りない以上、時間はどれだけあっても足りない。つまり、マリーもウィルダにだけ構っているわけにはいかないということだ。
だからこそ、ウィルダはマリーの行動に気を悪くすることはなく。話を続ける。
「実は、私、結婚を考えているの」
「……え?」
淡々と告げた言葉に、マリーがきょとんとした声を上げる。
「お、お相手は?」
「ボーナム侯爵よ」
その名前を聞いたためなのか、マリーが手に持っていた窓拭き用の布を落とす。
その後「お、お嬢様、正気ですか!?」と問いかけてくる。次に彼女はおぼつかない足取りでウィルダの方に向かってきた。
「ボーナム侯爵と言えば、とても女癖の悪い好色な老人貴族ではありませんか」
「……けれど、お金持ちよ」
彼は言ってくれた。ウィルダが彼に嫁げば、借金をすべて返してくれると。
どれだけ悪評のある人物でも、約束を守らないということはないはずだ。
そんなことをしてしまえば、社交界での立場に傷がついてしまう。
「お兄様があれだけの借金をこさえてしまった以上、私は援助を求めてどこかに嫁ぐ方がいいわ」
「……ですが」
「持参金も必要ないとおっしゃっているし……」
正直なところ、ウィルダだってイーサンの元に嫁ぐのは絶対に嫌だ。
だけど、背に腹は替えられない。そもそも、ウィルダは現実主義者だ。
いつか白馬に乗った王子様が……なんて夢を見ることが、幼い頃からできなかった。
「まぁ、とにかく。私はこの件について前向きに考えるから」
マリーに話したのは、ただ単に愚痴を吐きたかったからなのだろう。
身内以外に話を聞いてくれる人が欲しかった。だから、マリーに話をした。ただそれだけだ。
「……お嬢様」
「それに、私は昔から夢なんて見ないわ。お兄様が夢を見てこうなってしまった以上、余計に夢なんてばかばかしいと思ってしまったもの」
兄アイザックはとても夢見がちな性格だった。それが原因で、投資詐欺に引っ掛かり多額の借金をこさえてしまった。
そんな兄を見ていると、夢を見たいという気持ちはどんどんしぼんでいく。今思えば、ウィルダが現実主義者になってしまったのは、兄がいつもいつも叶いもしない夢を見て語っていたからなのだろう。
「それに、ボーナム侯爵は私のことを気に入ってくださっているご様子だったわ。……きっと、殺しはしないと思うのよ」
あの態度を見るに、イーサンがウィルダのことを好いているのは明確だ。
それに、ウィルダは社交の場で彼に声をかけられたことが何度もある。
そのたびに彼は「美しい」やら「まるで女神のようだ」などと称賛の言葉をウィルダに投げかけ、さりげなく身体に触れてきた。
ウィルダはそれをさりげなく躱していたが、それもどうやらイーサンからすれば気に入る要因だったらしい。彼はまるでウィルダに粘着するようにと声をかけてきたのだ。……今思い出しても、おぞましい。
「まぁ、とにかく。私が誇れるところは、この容姿だけだし。それを利用するのが、一番手っ取り早いもの」
「……お嬢様」
「それに、一人を相手するだけでいいなんて、娼婦よりもずっと楽なお仕事だわ」
実際、イーサンがウィルダをどう扱うかはこれっぽっちも分からない。
殺さないというのも、結局は願望であり実際はなんらかの拍子に殺される可能性だってある。
「お、お嬢様!」
だが、どうやらマリーには何か思うことがあるらしい。
彼女はウィルダの手を取ると「お嬢様には、きっと素敵な男性が迎えに来てくださいます!」と力いっぱい言う。
「こんな素敵なお嬢様には、素敵なお方がお似合いです」
「……あのね、マリー」
「絶対、ぜーったいにお嬢様には素敵な男性が現れます! 私、保証します!」
ぎゅっと手を握られて、そう告げられる。
マリーはこんなにも夢見がちな性格だっただろうか?
そんなことを考えつつ、ウィルダは「無理ね」とその言葉を突っぱねた。
「夢なんて、見たくもないわ。だって、お兄様は夢を見た結果破滅したじゃない」
一概に夢のせいだとは言えないというのは、ウィルダだって分かっている。
兄が騙されやすいお人好しだったというのも関係していると、分かっているのだ。
しかし、そう思ってしまう気持ちが止まらない。
「少なくとも、私は絵本の中のような出来事は信じないわ」
きっぱりとマリーにそう告げ、ウィルダは「……手伝うわ」と言って落ちた窓拭き用の布を手に取る。
(少なくとも、夢よりもお金が今は必要だもの)
夢だけでは食べてはいけない。そのため、ウィルダが今欲しいのは夢でも愛でもない。お金。ただそれだけなのだ。