プロローグ
ローゼには前世の記憶が残っていた。
愛より大切なものはない、という美しい言葉を大義名分にしてろくに働こうとしない両親の間に生まれたこと。そんな両親だから常に金がなく、貧しい子供時代を過ごしたこと。貧しいがゆえ「福祉に頼る」という選択肢も知らず、まともな教育にありつけなかったこと。歴史が繰り返されるようにローゼもまた低収入の仕事にしかありつけなかったこと。
そして車に轢かれ、あっさり召されてしまったこと。
冷たく硬いアスファルトの上、己の命が消えゆく中、彼女は生涯を振り返った。
(ああ、なんてつまらない一生だったんだろう。友達もできず、彼氏もできず、日々を生き延びるのに精一杯。生きがいなんて見出せなかった)
(来世があるなら、今度こそ幸せになりたい。お金持ちの子に生まれたい、とまでは言わない。普通の家でも、いっそ貧乏な生まれでもいいから、最終的には幸せになれるような……そう、シンデレラみたいに)
そして今世、ローゼとして生まれ変わった彼女は、果たして――。
第一章 赤ずきんちゃん誕生
「ローゼ、そろそろ大奥様のところへ行く時間よ」
「はーい! 行ってきまーす」
籠にケーキとポットを入れ、元気な声とともにローゼは玄関を飛び出した。行き先は、ここザルツェンの街の中心部から少し離れた、森の中にあるハーニッシュ家別邸。
残念ながら、ローゼは今世でも経済的に恵まれた暮らしを送れてはいなかった。
彼女が生まれたのは、コウルコウロス王国のザルツェン。両親は平民だったが優しく、また働き者だった。ところがローゼが幼い頃に相次いで他界し、それ以来彼女はザルツェンを治めるハーニッシュ家の住み込みメイドとして働いていた。
ローゼに目ぼしい財産はなく、給金からコツコツ貯めたわずかな蓄えがあるのみ。
だからといって、この人生が不幸だとは思わなかった。彼女にとっては、前世よりも今世の方が恵まれているものがあったからだ。
それは、容姿。
ローゼはとても見目がよかった。ゆるく波打つ金色の髪に、橄欖石【ペリドツト】を思わせる若葉色の瞳。目、鼻、口の配置のバランスはもちろん、やや小柄だがスラリと伸びた四肢はガラス細工のように美しく、妖精みたいだと言われたこともあるほど。
童話に出てくるシンデレラが、どうして後王子様に見初められたのかといえば、彼女の容姿がよかったからに他ならない。だとするならばローゼにも、チャンスがないとは言い切れないはず。
お金を貯めて王都に出て、貴族の屋敷でメイドとして働く。そして屋敷の主人、息子、あるいは王都にちらほらいるであろう貴族の誰かに見初められ、貴族夫人になってめでたしめでたし――。それが、ローゼの考える実現可能な夢であり、幸せな未来像だった。
「おやローゼ、今日もゲルデさんのお屋敷へ?」
「そうよヴィム、おやつを持っていくところなの」
「こんにちはローゼ。また店に寄ってくれよ、いいバターが入ったんだ」
「こんにちはフランツさん! ありがとうございます、ハーニッシュ家のコックにも伝えておきますね!」
別邸へ向かう途中、ローゼはいつものごとく何人もの住人に声をかけられた。
容姿のよさを自覚していなからも、前世で辛酸を舐めてきたローゼは美しさだけで全てうまくいくとは思っていなかった。だから毎日謙虚に働き、己の振る舞いはいつか自分に返ってくるのだからと、誰に対しても優しく接した。
そのおかげで、彼女は老若男女問わずたくさんの人から好かれていた。
ハーニッシュ家の別邸には現当主の祖母ゲルデ・ハーニッシュが一人で住んでいた。
ゲルデはとても変わり者で、会う人会う人にさまざまな分野のクイズを出した。知識を問う問題だったり、言葉遊びのなぞなぞだったり。それは彼女なりの誰かと打ち解ける手段だったのだが、大半の者には理解されず、むしろ「変人」という評価を得ることの方が多かった。それゆえ家族や使用人たちから距離を置かれ、行き着いたのが別邸というわけ。
「大奥様、ローゼが参りました!」
扉を開けて呼びかけると、ゲルデが二階の吹き抜けから顔を覗かせた。くりんくりんにカールした白髪と、柔和な笑顔によく似合う丸メガネが印象的な、愛嬌のある老婆だ。
「ローゼ、待っていましたよ。今日のお茶菓子は何かしら? それから、スポンジ生地の共立てと別立ての違いは?」
早速クイズが飛んでくるが、ローゼは狼狽えることなく、籠の掛け布を取って、ゲルデに見えるよう軽く持ち上げながら答える。
「大奥様のお好きなキルシュトルテです。チェリー酒をいつもより多く使ったので、とっても美味しいと思いますよ! ご質問の答えですが、ケーキのスポンジ生地の製法ですね。共立て法は全卵を泡立てて作る方法で、きめが細かくしっとりとした焼き上がりになります。別立て法は卵白と卵黄を別に泡立てて作る方法で、全卵よりもしっかり泡立つのでもろさのあるふんわりとした焼き上がりになります。ちなみに今日のトルテは共立てで作ってあります」
ゲルデは微笑み、親指と人差し指でマルを作る。
「いいわ、大正解。よく勉強しているわね。キルシュトルテも楽しみだわ」
ローゼはゲルデから唐突に繰り出されるクイズが楽しくて仕方がなかった。
もちろん、大多数と同じようにローゼも最初は面食らい、答えについても見当すらつかなかった。しかし彼女だけは「わかりません」と諦めることをせず、「調べますので、少し待ってください」と言って猶予をもらい、仕事の合間に本邸の書庫を訪れては、自力で答えを見つけた。そしてゲルデに「大正解」と言わしめてからというもの、このクイズが二人の楽しみとなった。
ローゼはゲルデに気に入られ、本邸よりも膨大な蔵書量を誇る別邸の書庫を漁ることを許された。ゲルデは最初こそ一般常識から問うていたが、ローゼの正答率が上がっていくのに従って、難易度が上がっていき、今では高度な専門知識を問う問題がポンポン飛び出すようになった。
ゲルデとのこうしたやり取りをローゼだけは苦痛に感じたことがなく、みなが行き渋る別邸への用事もローゼだけは喜んで出かけた。そのうちに、別邸の仕事の大半はローゼが任されるようになった。
「ところでローゼ、これを見て」
軽食の用意をしていると、ゲルデがローゼに声を掛けた。彼女の手には赤い布が載っている。
布を広げると、マントになった。腰のあたりまですっぽり覆ってくれそうな丈だ。上質な生地は分厚く暖かそうで、フードの縁にはぐるりと刺繍リボンが縫い付けられていた。
「赤い……マント、ですか?」
「そうよ。あなたに似合うと思って作ってみたのだけど、どうかしら」
「えっ、私に、大奥様が!? こんなに素敵なもの、単なるメイドの私には勿体無いです!」
ローゼは驚き固辞した。どう見ても高価で、自分の身分を考えると軽率に受け取るわけにはいかないとわきまえたのだ。しかしゲルデは聞き入れない。
「いいのいいの。偏屈難問出題ばばあのところへ笑顔でやってきてくれる者なんて、あなた以外にいないのだもの」
「偏屈難問出題ば……、でもそのおかげで色々詳しくなれましたよ! 大奥様のお話はいつだって面白いですし、お優しいし……」
丸メガネの奥にある目を細め、ゲルデは柔らかく微笑む。
「そう言ってくれるのはローゼだけ。だから私はおまえがかわいいの。そうとわかったら遠慮なくもらってちょうだい。それで、ペラグラとは?」
「ありがとうございます、大切に……ええと、ペラグラはナイアシン欠乏症のことで、光に当たることで痛みが出たり、左右対称の発疹が現れるという特徴のある病気です。症状が進んで脳症が起こると最悪の場合死に至ることもあります」
「大正解、よくできました。今日は夕方から冷え込むから、本邸へ戻る時はそのマントを羽織ったらいいわ」
「いえそんな……はい。ありがとうござい、ます……」
流されたような気がしないでもないが、どうもゲルデは否が応でもローゼにマントを贈りたいらしい。あまりに頑なに拒むのも失礼にあたると思い、ローゼはありがたく頂戴することにした。
そして、いつものごとく「大正解」を両手で数えきれなくなるほどもらったころ、ローゼは別邸での仕事を終えた。
すでに夕刻、あたりは薄暗く気温も下がり始め、雪がちらつき始めていた。
(うわ、見るからに寒そう。せめてあと一時間早ければまだ明るかったんだけど……)
ローゼは意を決し、ゲルデにもらった真っ赤なマントを羽織った。
分厚い生地なのに羽のように軽く、まるでマント自体がゆるく発熱しているみたいにじんわり熱を感じる。
(想像以上にぽかぽかだわ! これなら吹雪の中でも平気で行軍ができちゃいそう)
マントの暖かさにローゼは上機嫌になり、足取り軽やかに本邸へと帰り着いた。