一夜のふたり 失恋と翻弄
別れた恋人に投げつけたのは、「死ねよ」の一言と下に向けた親指のみであった。
続木玲は無感動無表情な人間である。とは、確かに昔からよく言われた。しかし、それが不満であるならば何かしら言葉で伝えて関係の改善を図るべきだった、と、彼女は思う。と、同時に、こうした可愛げのない思考回路をしているがゆえに、今回のような顛末に至ったのであろうとも。
元恋人ばかりを責めるのはフェアではない。自分にも悪いところはあったのだ。公平を是とする己が心の隙間から囁く。
様々な思考と感情に振り回され、疲れた玲は大変単純な行動に出た。
泥酔したのである。
「あークソあのクソ野郎ちんこもげて死ねクソ」
酔いと怒りにまさしく般若のようになった顔で橋の上からクソをぶちまける。四月生まれで良かった。おかげで酒に逃げることができる。
玲の誕生日は四月十四日、二十歳になったばかりだ。
彼女は大層な美人であった。
背は高く爆乳であり腰は括れ尻と太ももはむっちりと張っている。少し陰があるものの、ショートカットの似合う顔は小さく顔面は美しい左右対称だった。だがそれでも恋人は浮気するのである。まことに世の中は理不尽だった。
合い鍵を貰ったのは二か月前のことである。恋人はこの春から社会人になった。毎日大変だろうと、夕食を作りに行こうとしたのだがそれが仇になった。
いそいそと食材を買い込み初めて使う合い鍵に胸を高鳴らせながら部屋の戸を開けると、とても気持ちよさそうな喘ぎ声が大音量で流れてきた。
それまで微笑みさえ浮かべていた表情は一転。能面のようになった彼女はそのまま寝室に乗り込み、裸で何か言い募る二人を前に冒頭の二つに加えてさらにスーパーのレジ袋を床に叩きつけ、部屋を飛び出し自棄買いし、居酒屋へ駆け込み不味くて度数の高い酒をかぱかぱ空けて今に至るのだった。
「うー……」
今日何度目かわからない呻き声を漏らして玲はポケットに手を突っ込んだ。指先に当たる冷たく固いもの。恋人の部屋の合い鍵だ。
「……クソ」
川の上を滑る風は火照った体に心地よい。彼女の嫌いなソメイヨシノの並木が、月明かりに照らされ、暗い川面へ亡霊のように映りこんでいた。
鍵を貰った時、そのまま一緒にキーホルダーも買いに行った。シンプルなデザインの赤いエナメルのキーホルダーを買って、ついでに夕食も一緒に食べて、恋人の部屋へ戻った頃には、まだ風は冷たかったし桜は咲いていなかった。
玲は奥歯を噛みしめると、そのクソムカつく金属を握りこみ、真っ黒な水面へ思い切り投擲した。
してから気づいた。あれ私んちの鍵も付けてる。
固まった耳に、ぽちゃん、という音が寂しく響いた。
「マジか」
呟いたところで時間は逆再生されない。時よ止まれ、そなたは美しい。しかし止まったところで鍵は沈んだ後である。
「……マジだ」
鍵屋の営業時間は何時までか。しこたま飲んでいたおかげで財布が軽いがATMは使えるか。――そもそも私は何をやっているのか。目鼻の奥が熱くなる。
「……う」
口元を手で押さえ、その場にうずくまる。
「うぼえええ……」
出たのは口からであった。
吐き気は一度では収まらず、二度、三度と吐きまくる。橋の上は誰が掃除するのか。汚してしまってごめんなさい。
そのうち目からも熱い物が溢れだした。透明なゲロもまた次から次へと頬を伝い落ちる。どちらも玲の意志では止められない。
それでも一旦胃が空になればいくらか落ち着いた。そこで気が付く。誰かが、背中をさすってくれていた。
くらくらしながら振り向くと、そこにはスーツを着た糸目の男が一人、心配そうにしゃがみ込んでいた。
「……え」
「お姉さん、大丈夫? 救急車呼ぶ?」
少し訛りのある、低い声だった。声を出すのが辛くて首を振ると、今度は歩けるか聞いてきた。
「……」
ナンパの類かと疑ったが、寝てるんだか起きてるんだかわからない顔は真剣に心配しているようだった。痴漢冤罪を心配しないとは今時奇特な。
「大丈夫です。すみません……」
「そう? ほんならええけど」
よっこらしょ、と彼は立ち上がった。立ち去るつもりらしい。本当に下心も何もなかったのだろう。掛け声が見た目に似合わず年寄りめいているが、いい人のようだ。
「……あの」
「ん?」
しゃがんだまま声をかけると、またしゃがみ込んでくれた。勘違いしたのかまたもや具合を聞いてくる。
「鍵を、落としてしまって」
「ありゃ」
大変やったね、どこで落としたん? などと眉毛を下げてまたもや心配してくる。
だんだん腹が立ってきた。お人よしが過ぎるのも問題である。見知らぬ他人にこうも親切にする彼は、きっとこれまで信じる者は報われた世界に生きていたのだろう。
しかし巷には理不尽が転がっている。自分が体験したように。不公平は良くないのだ。善意が報われるばかりでないことを、身をもって知らせてやらねばなるまい。
酔っ払いのそれこそが理不尽な思考がまとまると、玲は青年の顔をちらりと流し見た。
「お兄さん、泊めてくれませんか」
ついでにセックスしましょう、と付け加えると口と細い目がぽかんと開いた。
明かりを消した部屋には、当然ながら他人の気配が充満していた。
湯を使わぬまま行為に及んだ経験も玲にはいくらかあったが、流石にゲロと酒の悪臭をぷんぷんさせたままではマナー違反もいい所である。お先にどうぞと勧められたこともあり、ありがたく先に入浴させてもらった。
そうして今、嗅いだことのないにおいがするベッドの上で、彼女は漏れ聞こえるシャワーの音に耳を澄ましている。
あの後、部屋に上がり込むまでの道中でお互いのことはいくらか話していた。玲のことは勿論、運悪く通りすがった彼のことも。それによると、彼の名前は緋山直孝。ごく一般的な二十六歳の会社員だということだった。
生まれはここ居月市だそうだが、中学に上がる前から親の転勤で関西方面をあちこち回っていて、言葉の訛りはそれに由来するらしい。昨年の初夏に就職先の神戸支社からこちらの支社へ異動してきて、久しぶりに古巣に戻ってきたとわざとらしく笑っていた。
特に玲が尋ねたわけでもないのだが、異様な雰囲気の中で沈黙を嫌ったのか、何も言わずとも身の上について直孝はよく喋った。
曰く、妹がいる。曰く、本が好きである。さらに曰く――童貞である。
「気にしてるのかな」
思い返していたところで、浴室の戸を開ける音が聞こえた。
もぞもぞと布団から首を伸ばせば、部屋の中に立つシルエットが暗がりに慣れた目に映る。がしがしと乱暴に髪を拭いており、服もきちんと身に着けていた。
「着たんですか」
「いやその……もし寝てたら、起こすの悪いなって思て」
ぎし、と音を立ててベッドに腰かけた背中から、心細そうな声が聞こえる。えらい、とすっぽんぽんでよその寝床に潜り込んだ不埒者は感心した。
「いい人だなぁ」
「よう言われる。……言われても何もないけどな」
「まあつまり対象外ってことですからね」
「君ひどくない?」
小さい抗議にこちらも小さく笑う。玲が自分のものでもないのにどうぞ、と言うと、家主も家主で自分の布団に失礼しますと断って潜り込んだ。
「服着てないんですか」
「何でいきなり敬語。まあどうせ脱ぐしいいかなあと思って。脱がせたかったですか?」
問うとしどろもどろでまるで答えになってない答えが返った。この慌てようで本番は大丈夫かと、若干不安になりながらも玲はそっと口づけた。唇から少し逸れたが、それでも相手を固まらせるには十分だったらしい。
「じゃあ始めましょうか。筆おろし」
「その言い方やめて……」
朝までには十分すぎるほどの時間がある。