終わりのプロローグ.それは恋に狂った女の浅略
魔が差した。結果、妊娠した。
佳奈は去っていってしまう好きな人のよすがが欲しかった。
ほんの出来心で、それでいて、してはいけないことだった。
まだ膨らんでもいないお腹を撫で、溜め息を吐きかけて飲み込む。
(溜め息を吐いていいのは、父親を知らずに育つことになるお腹の赤ちゃんと、私に騙された透真さんで、私じゃない)
佳奈は安普請のアパートの自室で、膝を抱えた。
恋人の倉持透真とは同じ会社の同僚として出会った。
たいした学歴がない佳奈を拾ってくれた従業員数がようやく三桁行くかどうかの小さな会社に、本来ならばいるはずのない人。親会社からの出向という形で来た透真は次々と小さな会社を改革していった。無駄な仕事、残業が減ったうえ、給料が増えた。
ありがたい話だ。
パートのお姉様方の噂では、透真は親会社を経営する一族の出らしく、この会社には修業の一環として来たらしい。
要するに大がつくお金持ちだ。
だが、驕ったところはなく、誰にでも親切だ。育ちが良いからだろう。ちらりと話題に出た学歴も高かった。
それに何より、透真は顔がいい。
高い鼻梁に、少し鋭い瞳。薄い唇。日本人らしい黒髪は後ろに撫でつけられていて、瞳の色も黒だ。
だが、近くで見るようになって知った、その瞳は深く、どこまでも続く闇のようで、いつまでも見ていられる。
怜悧な印象を与える人なのに、佳奈の前では表情が甘やかになる。
その瞬間が、とても好きだった。
だが、深入りしてはいけないと、わかっていたはずだった。
透真は一生に一度の燦然と輝く想い出にしかならない男だ。
佳奈に声をかけてくれたのは、たまには佳奈のような凡庸で質素な女と付き合ってみるのもいいという気まぐれだったのだろう。
いずれ家柄がよく、美しく、優しい女性と結婚するまでの遊び。
それでも、佳奈にとっては、人生最初で最後になる最高ランクの男性とのお付き合い。
それは、遊園地へ行くような特別な出来事であって、日常にはなり得ない。
遠目に通り過ぎるだけだったブランドショップで服を買ってもらい、値段がわからないレストランの個室でカトラリーの使い方を教えてもらいながら食事をし、名前だけは知っていたホテルで透真の鍛えられた背中に手を回す。
キスすら初めてだった佳奈に透真は全て教えてくれた。
始まりを告げる優しい愛撫に身を任せ、可愛いと褒められる。
嬉しくて、透真を喜ばせようと頑張るも、次第に行為は透真から佳奈へと、一方的なものになっていく。
いつも最後は喘ぐだけになり、快楽が過ぎてわけがわからなくなるまで、責められる。
透真は意外と激しい。佳奈が疲れ果てて気を失うように眠りにつくまで終わらないのだ。
だけど、あの日は珍しく体力が残っている間に行為が終わった。
洗面所で後始末をして、ベッドに戻ってきた透真の腕の中で、それでも佳奈は幸せだった。
疲れた様子の透真に、ピロートークをさせないよう、くっついて眠りに落ちようとしたときに、佳奈の頭を撫でていた彼が「いつまでこうしていられるんだろうか」と呟くまでは。
胸騒ぎがして、すぐに寝てしまった透真を起こさないよう、そっとベッドを出ると、佳奈のスマートフォンが光っていた。
噂好きのパートのお姉様達と繋がっているSNSには、「透真様、親会社に帰っちゃうんだって」と、書かれていた。
透真をアイドル扱いしているお姉様方の阿鼻叫喚が目に入ってくると同時に、体が芯から冷えた。
魔法が解ける時間が来ることは、ちゃんと頭では理解していたのに、いざ捨てられるとなると苦しくて、悲しくて、寂しい。
そうだ、寂しかった。だってこんなちっぽけな佳奈を見つけてくれた唯一の人。
何が良かったんだか、佳奈を一時の遊び相手に選んでくれ、知らない世界を教えてくれた。
だけど本当は、お金のかからないデートもしたかった。
ただ手を繋ぎ、公園をぶらぶら歩くような。
同僚の愚痴なんか言い合って、佳奈が作った安っぽい料理を食べて、たまに喧嘩して。
そんな想像をすると、涙が止まらなくなった。
それで、魔が差した。
透真はそばにいてくれなくても、彼に繋がるものは手に入るかもしれないと。
洗面所へ行くと、ゴミ箱の中には、丸められたティッシュが一つ。
それを解すと、先程まで透真が使っていたゴムが入っていた。
自分のしでかしたことを思い出し、誰もいないのに佳奈は恥じ入って手で顔を覆った。
(どうしよう。この子は産みたい。悪いのは私でこの子に罪はない)
でも、一人で育てられるのだろうか。
頼れる人はなく、日々の生活に手一杯で給料も上がったとはいえ、子供を養えるほどではない。
(いや、一人親なら何かと支援があるらしいからまずは調べて……。あとは扶養手当っていうのがもらえる、はず)
だが、そもそも仕事は続けられるのか。産休育休は労働者の権利らしいが、騙した佳奈に激怒して、彼が手を回してクビにしたりするかもしれない。
それに、ちょっとでも彼によく見られたくて、佳奈は必死だった。
貯金を取り崩して、高い化粧品を買い、安くて速い理容室から、高くてお茶が出てきて店員がちやほやしてくれる美容室に替え、洋服だって、ファストファッションをやめた。
美容師に勧められるがまま、伸ばしっぱなしだった黒髪に緩いパーマをかけてもらい、美容部員に勧められるがまま、眉毛しか描いていなかった化粧も時間をかけて丁寧に施すようになり、販売員に勧められるがまま、雑誌に載っている服を買った。
どれもこれも、佳奈からしたら、凄くお金がかかる行為だった。
どんなに頑張っても、どうせ、すぐに飽きられるとわかっていたからこそできた決断だった。
長続きしないのだから、人生のうちの一時、多少散財するのも悪くはないと思った。佳奈のつまらない人生では、こんな機会、もう訪れないのだから、と。
結果、これから子供を産もうとするには心もとない金額しか口座に入っていない。
(いっそ、私がしたことを秘密にして、透真さんに妊娠したって言ったら……)
優しい人だから結婚してくれるかもと、頭に浮かぶものの、すぐに首を振る。
子供のころ、父のようなズルい人間にはならないと誓った。
それなのに、誓いを破り妊娠した。
これ以上、愚かなことをしてはいけない。
自戒の言葉は頭に浮かんでくるのに、嘘を吐きたくて仕方がない。
透真と赤ちゃんと三人で家族になりたい。
佳奈は自分が悪いのに涙が止まらなくて、泣き続けた。
「佳奈?」
どれくらい泣いていたのか、頭上から声がして佳奈はゆっくりと顔を上げた。
「……とうま、さん」
恐らく、渡していた合い鍵を使ったのだろう。佳奈も透真のマンションの合い鍵をもらってはいたが、互いにこれまで使ったことはなかった。
いつでも使っていいと言われていたが、使ってしまったらブレーキがかけられなくなりそうで。佳奈の私物を置いて、透真の家をマーキングしたくなりそうで。結局、使わなかった。
「目が赤くなっているね」
透真が心配そうな顔をし、大きな手が下りてきて涙が止まらない佳奈の頬を撫でた。
「勝手に入ってごめん、泣き声が聞こえてくるのにチャイムを鳴らしても出ないから」
「ごめん、なさい。気づかなくて……」
彼がしゃくりあげる佳奈の横に座ってくれた。
そして、抱きしめ、頭を撫でてくれる。
「いいよ、大丈夫」
「あのね、あのね……」
正直に言わなければならない。
だけど、この人と離れたくなくて言葉が続かない。
「佳奈、妊娠してるの?」
その言葉に佳奈は息を呑み、衝撃に涙が止まった。
そうだ、今日は約束なんかしていなかった。
それでも彼が来たのは、質問するためだ。
(でも……)
「どうして?」
何故、気付いたのだ。まだ誰にも言っていないのに。
妊娠検査薬で調べただけだ。
「佳奈が妊娠しているんじゃないか、って奥田さんに言われたんだ。トイレで隠れて吐いていたし、人とぶつかりかけたときに手でお腹をかばった。それにケアレスミスも連発している。妊娠したことがある女性なら、覚えがある行動や症状だと」
奥田さんは同じ会社でパートをしている二児の母だ。
元々は専業主婦で子供が大きくなったためにパートで働くようになったらしいが、すごく目端が利いて、いつも助けてくれる。
透真と付き合っていることは誰にも言わなかったが、気づかれていたのだろう。
奥田さんは佳奈にアイドルは眺めるものだとか、王子様は憧れるものだとか、彼が手に入らない存在であることをそれとなく忠告してくれていた。
深入りしてはいけないと、折角止めていてくれたのに、申し訳ない。
「怒られたよ、佳奈ちゃんのような純粋な子を弄んで捨てる気か! って。そんなことするわけないのにね」
透真が苦笑している。
そして、一度立ちあがり、ゆっくりと佳奈の前で膝をついた。
「結婚してほしい」
オーダーメイドなのだろう、完璧にフィットした高そうなスーツのポケットから透真が小箱を取り出した。それがゆっくりと開かれると、指輪が鎮座している。
キラキラ輝く、見たこともないような大きなダイヤモンド。
「子供ができたからじゃない。いや、勿論それもあるけれど、佳奈と結婚するって決めていた。この指輪だって、前々から用意していた物だ。愛してるよ。家族になろう。僕が佳奈と赤ちゃんを幸せにする」
真摯な瞳、夢のようなプロポーズ。これですべての望みが叶う。
(私と結婚してくれるつもりでいただなんて……!)
ふらりと、佳奈は引き寄せられたように、指輪を受け取ろうとした。透真が台座から指輪を外し、佳奈の左手の薬指に嵌めようとしてくる。
透真はきっと佳奈を大切にしてくれる。そして、生まれてくる子供も。
脳裏にある男の同僚の顔が浮かんだ。
同僚は佳奈に家族の話をいつもしてくれていた。奥さんは家事があまり得意でないらしく、同僚がいつも手伝うのだそうだ。それに子供のことだって、休日には必ず公園に連れて行ってやり、全力で遊んであげるらしい。
だから、奥さんとお子さんは同僚のことが大好きで、いつも同僚を取り合っているらしい。
佳奈は、そんな同僚の幸せな家族の話を聞くのが、好きだった。
憧れていた。
佳奈の母はすでに亡く、父はろくでなしだったから。
でも、これで、ずっと憧れていた未来が手に入る。
家族ができるのだ。一人ぼっちの佳奈というつまらない女が、同僚の奥さんのように愛し愛された母親になれる。
(なんて、幸せなんだろう)
嘘をついて、このまま指輪を受け取りたかった。
「……っ、ダメ!」
佳奈は手を引っ込めた。
これは、透真の輝かしい未来を犠牲にする行為だ。佳奈なんかよりずっと素晴らしい女性と結婚し、幸せな家庭を築くはずだったのに。
ついつい楽な方、幸せな方に流されかけたが、それは許されないことなのだ。
そうだ、卑怯な行いは、周りを傷つける。父のせいで身をもって知っていたはずだった。
「駄目、指輪はもらえない」