序章
水汲みはルトリシアの仕事の一つである。
クワホー川の近くの岩場から湧水が流れ出ていて、この湧水を使って薬を煎じるのが、ルトリシアに与えられた仕事でもあった。
湧水は両腕で抱えることができるような壺の八分目まで入れる。
ちろちろと流れ出てくる湧水を壺にためていると、近くの川岸に何か黒い塊が落ちていることに気づいた。
――なんだろう?
黒い塊を確認しようと、若紫色の瞳をぐりぐりと大きく見開いた。
川の上流から木が流れてきたのだろうか。もし、そうであるならば上流の村の様子を確認するために、急いで人を派遣せねばならない。
そんなことをぼんやりと考えていると、壺から湧水が溢れ出して、ルトリシアの手を濡らしていた。
「あぁ。冷たいっ」
水遊びをする時期にはまだ早い。水に触れた指先が、じんわりと痺れてしまうような季節である。
ルトリシアはすぐに湧水の注ぎ口から壺を離し、持ち運ぶ途中で零れてしまいそうな分を捨ててから、しっかりと壺を抱え直した。そして、先ほどから気になっているあの黒い塊に足を向ける。
近づくにつれ、黒い塊が人間であると認識した。そう、あそこにいるのは黒い服を着ている人間だ。
――子ども?
黒い服を着ている人間は、ルトリシアよりも小さな人間だった。十歳前後の男の子に見える。金色の髪が、ぴたりと額に張りついていた。
抱えていた壺を足元に置いたルトリシアは、男の子の側に膝を突き、その子の手首にそっと触れてみた。
――生きて、いる。
温もりと鼓動を感じ、それだけでも心が軽くなった。
そしてすぐさま彼女は立ち上がる。
「お父さまぁ、ロタ兄さまぁ」
一つに結わえた銀色の髪を振り乱しながら、足場の悪い道を来た方向へと向かって駆け出した。あまりにも慌てていたため、足元にあった壺を蹴ってしまったらしい。パシャリとその水がルトリシアの足を濡らすが、幸いなことに壺は割れなかった。
だが、そんな些細なことを気にはしていられない。
なにしろ人間が――小さな男の子が倒れているのだから。
第一章 男の子を拾ってみたところ
ジントルフ王国は、四つの公国と複数の村からなる王国である。四つの公国のうち、南に位置するシグラ公国は、隣国ヘザリントン王国との国境に位置しているため、二国間の交流にとっては重要な存在であった。
シグラ公国の君主であるモーリッツ・シグラには、二人の息子と一人の娘がいた。
一番上の息子であるグレームは、ジントルフ王国第一王子の側近という立場にあり、それがモーリッツのささやかな自慢でもある。
二番目の息子のロタールは、この公国の統制にかかわり、父親の片腕として活躍している。
そして、モーリッツが目に入れても痛くないほど可愛がっているのが、娘のルトリシアだ。彼女も彼女なりにこの公国の民とかかわり、ここでの生活をより豊かにすべく、父親の仕事をできる範囲で手伝っていた。
自然も豊かで広大な農地面積を誇り、森も川もあるシグラ公国。
今、シグラ公国が最も力を入れている政策が、どこにも属さない村を配下に治めることであった。けして侵略ではない。友好な関係を築き、相互利益を得られるようなかかわりを目指している。
というのも、どの公国にも属さない村は貧しく、魔物からの襲撃を受けやすい。だが、資源は豊かである。
その資源を生かせないから貧しいのだ。それに気がついたモーリッツは、豊かな資源の使い方と魔物を寄せつけない方法を村に提案し、村はその提案を受け入れると共にシグラ公国からの援助を受ける。
もちろん、シグラ公国側も無条件で資源の利用方法を提案するわけでもないし、援助をするわけでもない。きちんと条件をつけることで、シグラ公国側も利益を得るような仕組みになっていた。
こうやってシグラ公国に属した村の数は、モーリッツが君主になってから五つ。けして多いとは言えないが、少ないとも言い切れない。
ただ、シグラ公国にもたらされた利益は大きい。属した村もそれなりに生活が豊かになっているとの報告はあがってきている。今のところ、この政策はどうやらうまくいっているようだ。
そのような村の報告をロタールから聞いていたモーリッツなのだが、外からの騒がしい声に、目を通していた書類から顔をあげた。
「……おとーさまぁ、ロタおにぃさまぁ……」
「ロタール。私にはルトリシアの声が聞こえてくるのだが……。私もとうとう幻聴が聞こえてくるような年になったのだろうか」
茶色の髪を後ろに撫でつけているモーリッツと短く刈り上げているロタールは、髪型に違いはあるものの、その顔立ちはよく似ている。
「いえ。可愛い妹の声には、俺にも聞こえます」
「彼女はこの時間は、水汲みへ行っている時間ではなかったのかね?」
「そうですね。俺もそう思っていたのですが」
互いに紺色の目を細くし、二人は顔を見合わせた。
「お父さまっ……ロタお兄さまっ……大変なの……」
バンと執務室の扉が開かれ姿を現したのは、今話題にあがったルトリシアである。モーリッツが目に入れても痛くないほど溺愛している娘であり、ロタールの言う可愛い妹である彼女だ。
「朝から騒がしいね、ルティ。それに、そんなにびしょびしょに濡れて。何があったんだい?」
モーリッツは子どもを宥めるような口調で、優しく声をかけた。
ロタールは一度席を外し、侍女にタオルと飲み物を準備するように伝える。
「お父さまっ……あのっ……人がっ……」
走ってきた彼女は呼吸が乱れており、まともに会話ができない。それに急いている気持ちも重なって、言葉すらうまく出てこない。ぜえぜえと肩で息を整える。
「人が、どうしたのかな?」
ルトリシアが落ち着けるように、モーリッツは優しく声をかけるのだが、いつだって彼は娘に対しては甘い。
「とりあえず、濡れているところを拭こうか」
ロタールは侍女から受け取ったタオルの一枚をルトリシアに渡すと、もう一枚のタオルで彼女の濡れている足元の部分を拭く。その作業を終えたのを見計らって、侍女が温めのお茶を差し出した。
「さあ、ルティ。これを飲んで落ち着こう。話はそれからだ」
ルトリシアはロタールよりお茶を受け取ると、一気に飲み干した。
「はあ」
「落ち着いたか?」
「あ、うん。ありがとう、ロタお兄さま」
ルトリシアより受け取ったカップを侍女に手渡したロタールは、その際に妹の着替えの準備をするように伝える。
「落ち着いたところで、着替えてきてはどうだ?」
「そんな場合じゃないのよ。大変なの」
落ち着いたのは呼吸だけで、彼女の気持ちはまだ急いていた。
「あのっ! 川のところに、人がっ! 男の子が倒れているの」
ルトリシアの言葉に、男二人は眉間に皺を寄せた。言葉の通りに捉えてその状況を想像したが、脳内に浮かんだ映像がけしていいものとはいえない。
「その男の子は、生きているのか?」
ロタールは尋ねた。怪我人か遺体かでは、状況が異なってくる。
「生きてる。だけど、全然動かないの。私では男の子を連れてくることができないから……。それで……」
小柄なルトリシアでは運べないほどの大きさの男の子であれば、その子が赤ん坊ではないことだけは確かである。
「わかった。俺が一緒に行こう」
ロタールが「問題ないですよね」と意味を込めた視線を父親に向けると、モーリッツは深く頷いた。
「ルティ、案内してくれ」
「あ、うん。お父さま、いってきます」
慌ただしく執務室を出ていくルトリシアに「気をつけて行くんだよ」とモーリッツは声をかけた。ロタールが一緒ならば、少しは安心だ。
彼女が部屋を出てすぐに、慌てた様子で侍女がやってきた。その手にはルトリシアの着替えが準備されている。
「お嬢さまは?」
「ああ、悪い。出かけてしまった。だが、その着替えはすぐに必要になるだろうから、彼女の部屋にでも準備しておいてくれ」
承知しましたと、侍女は頭を下げて出ていく。
モーリッツは椅子に深く座ると、背もたれに身体を預けて腕を組んだ。
川の近くで男の子が倒れている。それが何を意味するのか。
上流から流れてきたと仮定したならば、そこで何が起こったのかを考えるのが重要だ。
ルトリシアが口にした川はクワホー川である。クワホー川はジントルフ王国の南から北に向かって流れており、国境近くのシェリダン山からシグラ公国を抜け、王都キキミを通り、徐々にその川幅を大きくしながら北の公国ガーサイドを抜けて、海に出る。
北の公国ガーサイドは賑やかな港町である。漁業も盛んであるが、ジントルフ王国の海の玄関口でもあり、この王国の貿易業が盛んになったのもガーサイド公国のおかげだとも言われている。
さて、国境近くのシェリダン山には何があっただろうか。