1.初夜すっぽかされた上に悪口言われたので逃げることにしたし絶対に許さない
――初夜だが夫が来ない。ブランシュは青ざめていた。
……結婚してから初めての夜が初夜だよね? そういう初夜だよね? とずっと考えているがやっぱり今が初夜のはずだ。
20歳になったばかりの元公爵令嬢ブランシュは、16歳の頃家同士が決めた婚約者と今日式を挙げたが、一人ベッドの上で困惑していた。
夫になったはずの彼、ウォルターは、どこか陰のある大人しい伯爵子息だった。ブランシュの方が格上の貴族という事もあってなのか、それとも本人の性格なのか、ウォルターは普段から全然喋ってくれない。喋ったとしても敬語で少し単語を言うくらいで、楽しくおしゃべりをした事なんてこれまで一度もなかった。婚約中から今の今まで、友好的で親密な関係が築けていたかと言われれば、明らかにそうではない。だからと言って初夜すっぽかしとは一体どういう事なんだろう。
彼の兄のウィリアムはとっても社交的で気さくで女性の扱いも上手いのに、なぜ兄弟でこうも性格が違うのだろう。同じ環境で同じ親に育てられたはずなのに。
婚約中、月一の顔合わせの茶会があったが、その時からずっとウォルターは喋らない男子だった。ブランシュだけいつも喋り倒していた。喋りかけると相槌は打つので、茶会で黙っているのが気まずすぎて、少しでも仲良くなりたくてブランシュだけとにかく喋っていた。あまり目も合わせてくれないのでつまらなかった。
ウォルターの色白で儚くて病弱な感じというか、どこか陰のある暗い感じが好みではあった。
すごくかっこいいというわけではないけどブランシュ的にはタイプだったから、婚約中から頑張って仲良くなろうとはしてきていたのだ。
この先もずっと、死ぬまでパートナーになる人なのだし、ブランシュは一生懸命打ち解けようとして、彼に話しかけて、好きなものを聞いたりした。
しかし彼は「はい」「ええ」「そうですね」「好きなものはあまりないです」「すみません」しか口にする事はなくて、結局打ち解けられたと思う前に結婚式まで行ってしまった。
婚約期間の4年間仲良くなれなかったのにこの先仲良くなれるんだろうかと心配になる事は多々あったのだ。
……今思えば、そう思った段階で婚約破棄しておけば、今こんな事にならなかったのに。
友達の令嬢の中には、政略結婚の相手が意地悪してくるタイプで嫌だとか、全然タイプでなくて困るとか言っている子もいたので、それに比べたら全然いい。無口なのも別にいい。政略結婚なんてどうせそんなものだし、恨み合ったりしなければいいと思っていた。
だから、恋人みたいに親しくできなくても構わないと思っていたのに……なのにだ。まさかの初夜の放棄という事態。さすがにこれはないんじゃないだろうか。
こっちは精一杯妻になろうとしているんだからむこうだって夫の役割くらい果たしてほしい。いつだって彼はブランシュに協力的ではなかった。
向こうだって今年20歳になったいい大人なのに割り切ってくれないんだろうか。
もう夜も更けに更けたので、初夜用の色っぽい服はとっとと脱ぎ捨てて普通に寝間着を着て布団に入った。もうふて寝だ。お休み!!!!
――翌日、朝起きると彼が隣で寝ていやがった。どうなってるこいつは。
もしかして夜になると透明になる特性でもあるのだろうか。ブランシュは彼を放置してとっとと起きて着替えて、朝食の席に座った。
義両親が出てきて、あれ? ウォルターは? と言われたので、ブランシュはありのまま起きた事を話した。
夜は全然来なくて待っていられずに寝たら、朝隣で寝てたので、きっと夜寝るのが遅くて眠いだろうし寝かせていますと。義両親はやや困惑したような様子でため息をつき、それ以上何も言わなかった。
その日中、伯爵家の仕事を義両親や執事に教わっていたのだが、ウォルターにも仕事について聞かなければいけない事ができてしまった。とても気まずいが、彼の書斎に向かう。
ノックをして名乗ると、どうぞと言われた。
「おはようございます」
時刻はまもなく昼だが、朝の嫌味を込めてそう言うと、彼は少し戸惑った様子で「おはようございます」と返してきた。何を戸惑っているんだろう。戸惑いたいのはこっちだが。
「私たち夫婦の寝室は3階の一番奥のお部屋であってますっけ」
あってるのは知ってるし実際に彼も朝には隣で寝ていたから、もちろん部屋はあっているがあえて聞いてみた。
「……あっています」
「昨晩は迷子になったのかと思って」
「すみません」
なにがすみませんなのか。やはり彼は目を逸らす。
私の事は抱けなくてすみませんなんだろうか。
「……取引をしている商会のお仕事で聞きたい事があって」
話を仕事に戻す。彼は淡々と仕事を教えてくれた。
それだけだった。他の事は何も喋らなかった。
それからも毎晩、ブランシュが起きている間にウォルターが寝室に入ってくる事はなかった。
朝も朝で、彼を起こさずにブランシュは自分だけ起きる。
そのままお互いに自分の仕事をするので、多少やりとりはするが相変わらず全然会話というものはない。夫婦になってから2日目には例の色っぽいネグリジェはクローゼットの奥にぶち込まれていた。
夫との関係はこんな感じであるけれど、義母との関係は大変良好だった。
気さくに話をする仲なので、しょっちゅう現状を報告して、どうしたらいいか相談をした。
何年もコミュニケーションを取ろうと試みてきたが全然手応えはないし、夜もあんなだし、もうだめかもしれない。
そう言うと義母は、「息子はあんなだけどあなたの事はすごく好ましく思っているはずでね、彼もちょっと照れすぎて頑張っているの、ちょっとだけ待ってあげて」といつも申し訳なさそうに言う。そう言われてもずっと彼はこんな対応だし、照れているようにも全然見えないし、気づけば結婚してから1ヶ月そうだった。……心が折れそうだった。
なにこれ、これで私たち新婚なの? こんなんじゃ結婚してもなんの意味もない。
泣きながらもうやだと言ったら、困ったように「ごめんね」と言われて、義母がすごく良い人なのもわかっているのでそれが申し訳なくてまた泣いてしまった。
……その時気づいた。泣くほど、こんなに悩むほどショックだったのだ。
公爵令嬢として生まれて、好きとか嫌いとかじゃなく決められた人と結婚して、仕事として子供を産んで育てるのが当たり前として教育されてきたけど、夫には愛してもらいたかったし、愛したかったし、子供だって愛したかったし、好きな人と結婚して好きな人と人生を共にしたかったと。
本当は決められた人と、仕事として、作業としての子作りなんてしたくなかったと。
でも、なんとか自分は仕事を果たそうとしたのに、彼ときたらそれさえしてくれなかった。こっちはずっと歩み寄ろうとしてたのに。
彼の事が好きになれそうで、一生懸命仲良くなろうとしてたのに、彼からしたら全然私はタイプじゃなかったみたいだ。
気づいてしまって、折れそうだった心がついにぽきっと折れた。
もう限界だった。気づきたくなかった。
このままここで、愛したり愛されたりしないまま、子供だっていつか欲しいけどこれじゃ作れるかどうかもわからないし、こんな状態で産んだ子だったとしても、我が子ならば愛しいとちゃんと思うんだろうか。それとも育児さえも作業として育てていくんだろうか。
……その頃から、時折一人で考え込むとめまいがしたり、過呼吸になる事があった。
義両親は婚約したての時から優しくしてくれたし、もう割り切ってこの人たちの娘になったんだという事で、夫ウォルターは気にしないで生きていくしかないのかもしれない。
うちの国の貴族として生まれてしまった以上、結婚したらもう最後だ。
この国の貴族たちは皆、様々な家業で多額の金を動かしている。毎年国に一定額の大きな納税をしなければ、貴族としての爵位はなくなるといってもいい。
よほどのことがあって家が失墜すると、もう並大抵の努力では貴族に戻れないと言ってもいいのだ。
それもあって、貴族たちは皆、領地や家業の経営や、貴族としての建前や体裁、運営に非常にシビアである。家同士の結婚と子作りは仕事で、離婚して実家に帰ったところで結局別の家の人と同じ事をしないといけない。それができないなら、特に女性は実家に居場所はない。離婚して再婚する貴族が現在少ない事もあって、現実的に考えると離婚するのは難しいのだ。もしブランシュが離婚したらこの家も後妻を探さないといけない。たとえ子作りが望めないにしても、その多大な迷惑を考えると簡単に離婚なんてできなかった。……いつかブランシュたちは養子でも取ることになるんだろうか。
悩みながら、時間だけが過ぎてゆく。
結婚して2ヶ月になろうという時には、めまいと過呼吸、そして吐き気まで出始めて、心の病気がいよいよ重くなり始めたそんな頃、領地の貴族が集まってパーティーが行われる事になった。
もちろんブランシュもウォルターと参加しなければいけない。彼はどうせいつも相談なく黒の服なので、こちらも黒いドレスで合わせる。既婚者はあまり派手な色は着ない。こんなの喪服だ。
ウォルターの髪は明るい、青みがかったグレーで、ブランシュは白い。ブランシュという名前は同じ名前の白い美しい薔薇からもらったそうだ。白い美しい薔薇が今ではこんな有様で情けなくなった。
白い髪を緩く巻き下ろして、ウォルターと無言で馬車に乗って、吐き気がおこりつつなんとか耐えながら領主である特別大きな公爵家の屋敷のパーティー会場へ着く。
お互い腕を組んだりしないで、ウォルターの少し後ろを歩いていると、ちょっと挨拶に行ってきますと言って一回も目線が合う事はなくウォルターだけ急いだ様子でどこかへ消えていった。私のドレス姿なんて全く興味ないみたい。
……はあ。やる事もないので、壁際に立って華やかな会場を眺める。
途中、友達の令嬢を見かけたが、皆なんやかんや夫に寄り添って楽し気だった。邪魔をしに行けない雰囲気だ。
会場にいるのも気まずくて、吐き気もなんだか相変わらず酷かったし、パーティー中は公爵家の庭園を歩いてよかったはずなので、ブランシュは庭に出る事にした。
綺麗な薔薇がたくさん咲いている。夜風が心地よかった。息苦しさがほんの少しマシになる。
「あれ? ブランシュ!?」
甲高い声がした。そちらを見ると、婚約者に暴言を吐かれ意地悪をされると言っていた友人だった。
「メアリー!」
「ブランシュも一人なの? 夫は?」
「いや、うち今最悪で……」
ブランシュも、という事はメアリーも同じような状況なんだろうか。彼女はブランシュより3ヶ月前に結婚したはずだが。ブランシュはメアリーと最近の近況などを報告し合った。
「うわあ、大変ね。うちはもっと酷いけど……もうね、見えてない所に痣がすごいの。直接殴られるわけじゃないけど、ちょっとした事で強く掴まれたり小突かれたりして、発言も酷くて。あなたの夫のほうがマシ……いえ、私の方がマシかしら。まだ体調には出てないから」
ストレスが症状として出てくるなんてよっぽどね、とメアリーに心配されてしまった。
お互いに大変みたいだった。
「でも、私もう離婚するの。そういう話が出始めてて」
「え!?」
メアリーの発言にブランシュは驚いた。
「人に対してこんな仕打ちをする夫も、そう育てて世に出したうえに私を庇おうともしない義両親も皆大嫌い。人生たった一回なんだから、どんな事をしてでも自分の力で好きな事をしてから死にたくて。
……おかしいじゃないこんなの。私だけ頑張っていろんなものを犠牲にして、周りは何も我慢しないで好き放題だなんて。大事にしてくれない人をどうして大事にしないといけないの?」
「メアリー……」
……大事にしてくれない人を、どうして大事にしないといけないんだろう。
歩み寄ってくれない人に、なんで歩み寄らないといけないんだろう。
なんであの人と一緒に寝ないといけないんだろう。
「初夜なんてもう酷かったの。痛くて痛くて。それからも娼婦みたいに扱われたから、最終手段として娼婦になってももう大丈夫。離婚するって決意してからすっごく気楽なの」
メアリーがなんだかまぶしかった。言っている事は悲しいのに、諦めた表情ではなくて、前向きに見えた。
聞いた話が衝撃的すぎて、彼女と別れた後もずっとその事を考えてしまった。
人生一回。
たった一回の人生なのに、このままでいいんだろうか。
好きな人と愛し合って、好きな人の子を産んで育てたい。
人として生まれたなら当たり前の欲求のはずなのではないんだろうか。
会場に戻ろうかと廊下を歩いていたら、聞きなれた声がした。
「……全然そんな人じゃない」
ウォルターの声だ。廊下の窓辺で誰か男性と話をしている。
「本当にブランシュはつまらなくて大した事ない女だから」
ぞわっとしたものが背筋を走った。
「うわ、ひどいこと言うじゃん」
「本当だから。とんでもない性格してる」
「顔がいいじゃん。胸もあるし」
「抱く気も起きなくなる。関わらない方がいい」
……どこが、私の事を好ましく思ってるんだろう。どこが照れてるんだろう。
すごく忌々しそうな、吐き捨てるような敵意のある言い方だった。彼のそんな喋り方は初めて聞いて、とても怖くなった。あんな人だっただろうか。
いつも敬語で、控えめで、臆病な感じの人だと思っていたのに、こんなに怖い喋り方は今まで一度もブランシュは聞いた事がない。
しかし、何度見ても、そこにいるのはウォルターだった。よく似た別人ではない。本人だ。……あの人はいったい誰なの。
ぼろぼろと涙がこぼれてきてしまった。
私の人生これでいいんだろうか。貴族になんて生まれないで平民に生まれればよかった。
貴族だから言えるのかもしれないけど、お金なんて最低限でもいい。せめて自然と恋をして、多少なりとも好きな人と結婚して、好きな人との子供を産みたかった。こんな苦しみを味わいたくなかった。
この人と結婚しているという事実が、この人しか今後の人生で愛してはいけないのに愛される事はないという事実が、絶対に許せなかった。
ブランシュは絶対に許さないと心に誓った。
自分の本心はもうわかった。離婚しようと決意した。