第一部 隷属と解放
「エリーゼ……君は本当に愚かだね」
夕焼けに染まる、美しい王宮の一室。この国の王太子の私室であるその部屋のベッドの上には、ため息の出るほど美しい、若い男女の姿がある。
やわらかなプラチナブロンドの巻き毛が、その長く美しい髪の持ち主である少女の身体の下、純白のシーツの上に、ふわりと広がっている。
少女の類まれなる美しさと相まって、天使が翼を広げている光景かのような錯覚に陥る。だが、辛うじてまだその肌の一部を覆っている薄い下着の下にも、天使なら持つだろう大きな翼を隠しはしない。
当然だ、間違いなく彼女は人間なのだから。天使のように愛らしい容姿を持つヴァルトフォーゲル公爵令嬢エリーゼは、この国の王太子であるルツィウスの恋人にして、その婚約者である。
──少なくとも、今はまだ。
そんな、天使のように美しい少女を組み敷きながら、高貴で麗しい微笑を浮かべているこの青年もまた、天使の如き人間離れした美しさを持っている。だが、その綺麗な翠色の瞳の奥には仄昏い、情欲の火が確かに灯る。
彼こそが無垢な少女をこのようにあられもない姿にした張本人であり、そしてこの部屋の主──つまり、いずれこの国の王となるルツィウス王太子である。
ベッド上に下着姿の美しい婚約者を押し倒してその甘い唇を貪るさまは、情熱的な求愛の場面で間違いないのだろう。しかし、なぜだろうか。そこに小さな違和感を覚えずにいられないのは。
若い恋人たちの逢瀬にしては、緊迫した雰囲気がある。事実、少女のほうはその身を固くして瞳を潤ませ、僅かに震えてさえいるのだ。
対する青年は、そんな少女の様子をどこか愉しむような表情で眺めており、その光景は、既に手中に収めた獲物を食らう前にそれと戯れる猛獣の姿を彷彿させた。
少女の髪色より少し濃い金色をした青年の髪が、さらりと彼女の頬に触れる。雪のように白い首元に顔を埋めたルツィウスがその綺麗な首筋にゆっくり舌を這わせると、少女はまた小さく震えた。
エリーゼの美しい薄紫色の瞳には、困惑と恐怖の色が少しずつ、しかしはっきりと混ざっている。だが、彼が再び優しく唇を重ねればその瞳はすぐにとろんと蕩けて、頬には一層濃く紅が差した。
ルツィウスはごくりと唾を飲む。そして、ベッドの下に無造作に投げ捨てられた美しいドレスに一瞥をくれた。
一昔前のドレスとは違い、コルセットなどが不要な今流行りのドレスはひとりでも着脱可能なシンプルな作りだが、この流行に彼が今夜ほど感謝したことはない。
さもなくば、こうしたことに全く不慣れなこの青年が、淑女のドレスを無理やり剥ぎ取るなどという蛮行を、こうも手際よく行えるはずがなかったのだから。
少女は羞恥に赤面したまま顔を背け、目にはいっぱいの涙を浮かべている。致し方ないことだ、いくら相手が婚約者とはいえ、異性の前で初めて下着だけの姿にされた挙句、ベッドの上で強引に組み敷かれているのだから。
だが、特に強く拘束されているわけでもないのに彼女がこの男のもとから逃げ出そうとしないのは、彼女が彼に抱く強い罪悪感のせいなのか、あるいは──。
「殿下……いけません。お願いですからどうか、お許しください」
「何言ってるの? 死んでも、やめるわけないだろ。──君が悪いんだ。全て、君自身が招いたことだよ」
彼のその冷たい声に一瞬びくっと肩を震わせたが、それでも顔を背けたまま目を合わせようとしないエリーゼの頬にルツィウスはそっと手を添えると、ぐいと自分の方を向かせる。
驚きに目を見開いた彼女の瞳には、濡れた紫水晶のような眩さがある。それを見るたびルツィウスは自分でも恐ろしいほどの欲情を覚え、そのたびそれを必死で堪えてきた。
それでも、これまでは自分にも「天使の輪」があった。それゆえに、この穢れなき存在をなんとか穢さずに済んだのだ。
しかし──今は違う。それはもう、この本物の天使によって、奪い返されてしまったのだから。
借り物の「天使の輪」を無くしたニセモノの天使は、もはや天上にはいられない。だが、それがなんだというのだ? 彼が天上に留まっていた理由など、ただひとつ。この、たったひとりの天使のそばに留まるためだけだったのだ。
地上に堕ちろというのなら、喜んで。但し、ひとりで堕ちる気などさらさらないが。天使のように美しい笑顔でルツィウスは嗤い、そして彼女の唇を再び強引に奪った。
「んん──っ!! ぷはあっ! はあ……はあ……殿下、どうしてこんなこと……!」
「ああ可哀想に、そんなに怯えて……だが、今さら後悔しても、もう手遅れだ」
恐ろしいほど美しい微笑みを浮かべたまま、青年は彼女の上気した頬をそっと撫で、また深く口づける。それは、ふたりの昨日までのキスとは全く別物だ。
──ふたりの初めてのキスは、十年も前のこと。「貴方とキスがしたいわ」と言った愛しい少女の願いを叶えるため、少年は唇にそっと触れるだけのごく軽いキスを贈った。
どちらにとっても初めてだった、そのキス。それはとても拙いものだったが、大好きな少年とのファーストキスに、彼女は心からの喜びを感じたものだ。
だが、それから十年の時が経っても、そんな子どものお遊びのようなキスだけが、ふたりのキスだった。
ふたりの関係は、全てがそんな感じだった。箱入り娘の公爵令嬢エリーゼ・ヴァルトフォーゲルにとって、恋愛とはおとぎ話の延長線上にあるもの。愛し合うふたりはただ見つめ合い、愛を語り、時にそっと抱き合っては、軽い口づけを交わすだけ。彼女は愛するルツィウスとそうした恋人同士の甘い時間を過ごすのが、何よりも好きだった。
ルツィウスもまた、そんなエリーゼとの時間をこの上なく楽しんでいるように「見えた」。だが、それが決して真実ではないことを、彼女自身はよく知っていた。
十年ものあいだ彼の右手に嵌められていたその「指輪」、これが今はベッドサイドのテーブル上にある。それはヴァルトフォーゲル公爵家に伝わる魔道具で、人の心を操ることができる、恐ろしい代物である。
一国の王太子であるルツィウスは、そんな恐ろしい指輪を十年間にわたってその身につけていた。そしてこの指輪の贈り主であるヴァルトフォーゲル公爵家のひとり娘エリーゼに、ずっと「隷属」させられていたのである。
なぜ、そんなことになったのか。そしてなぜ、十年間も外されなかったその指輪が、今になって彼の指から外れているのか。
その理由を知るにはまず、なぜこの指輪が彼の指に嵌められることになったのかについて、知る必要がある。