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プロローグ
舞踏会の開幕はカドリールからと決まっている。
カドリールは四組の男女が四角い形を作り、パートナーを交換し合いながら踊るスクエアダンスだ。
このダンスを踊るのは、参加者の中で、最も地位の高い四組である。
王宮で行われる舞踏会の場合は、女王夫妻と王弟夫妻、女王の息子である二人の王子とそのパートナーで踊られるのが慣例だった。
「今日はもうお前とは踊らない」
カドリールを終えるなり、婚約者である第二王子フェリクスに宣言され、ジュリエットはにこやかに微笑んだ。
「かしこまりました、殿下」
快く了承したのに、フェリクスは不本意そうに眉間に皺を寄せた。
「二曲目と三曲目はコレットと踊る。約束したんだ」
「さようでございますか。では、そのようになさって下さいませ」
「……お前は本当に可愛げが無いな」
舌打ち交じりにそう告げると、フェリクスはジュリエットの前を去って行った。
そして、宣言通りに、現在の一番のお気に入りである、コレット・オービニエの待機する方向へと真っ直ぐに移動する。
(面倒な方……)
ジュリエットは心の中でつぶやいた。
貴族間のパワーバランスや家柄など色々な条件を考慮した結果、ジュリエットはフェリクスの婚約者として選定された。
しかし、彼は、母である女王から宛てがわれたジュリエットが気に食わないようで、その本音を隠そうとしない。
元々兄のエルネスト王太子と比べると、素行も出来も悪い人物なのだが、最近は輪をかけて酷くなっている。『良いのは女王陛下譲りの顔だけ』というのが周囲の評価である。
公式の場ではジュリエットをエスコートするものの、プライベートでは、その時のお気に入りをあちこちに連れ回しては大衆紙にすっぱ抜かれている。
(もう少しうまくやればいいのに)
ジュリエットはコレットと談笑するフェリクスに冷たい視線を向けた。
結婚前からこんな扱いを受けていても、自分が彼の婚約者に甘んじているのは、王家より、直轄領から産出される魔石の販価優遇の確約を貰っているためだ。
馬に代わる動力源としての魔石の発見から約百年、このフランドール王国の産業は革命的な発展を遂げた。
フリージ侯爵家は、魔高炉による製鉄を主産業としている。その利益の為の政略結婚なので、仮面夫婦でも構わないと思っていた。
ジュリエットは結婚に夢など抱いていない。両親も政略結婚で、仲が良いとは言えない姿を見て育ってきたからだ。
(私としては、大聖堂で夫婦の誓いさえ立てて下さればそれでいいのよね)
身分の高い男性が愛人を囲う事は珍しくない。義務さえ果たしてくれれば、ジュリエットはいくらでも容認するつもりだった。
しかし、フェリクスは、ジュリエットが冷めているのが面白くないのか、何かと突っかかってくるから面倒である。
最近では、コレット・オービニエとの恋を正当化するため、ジュリエットを悪役に仕立てあげようと工作している節も見受けられ、非常に煩わしい。
くだらない噂は王家とフリージ侯爵家の力で叩き潰してはいるのだが、両家の怒りは爆発寸前だった。
(あの馬鹿はどうして気付かないのかしら。あ……馬鹿だからね……)
自己解決すると、ジュリエットはフェリクス達に背を向けた。
誰からもダンスに誘われない令嬢は、壁際の椅子に座り舞踏会の様子を眺める『壁の花』になる。
ジュリエットは、そうなるべく、付き添いとして同行してくれていた叔母のソランジュの元へと向かった。
「ジュジュ、二曲目はワルツよ? フェリクス殿下とは踊らないの?」
ソランジュに尋ねられ、ジュリエットはこくりと頷いた。ジュジュというのはジュリエットの愛称である。
「殿下はコレット嬢とお約束があるそうです」
「まぁ……」
ワルツは密着するため、若い恋人たちに人気のダンスである。
それを別の女と踊ると聞き、ソランジュは露骨に眉を顰めた。
「あなたはいいの?」
「はい。気にしておりません」
ソランジュに向かって微笑みかけ、一緒に壁際に移動すると、何人かの紳士がジュリエットに近付いてきた。
「フリージ侯爵令嬢、よろしければ踊っていただけませんか?」
誰よりも早くジュリエットの元を訪れた紳士が声をかけてきた。ソランジュの方を窺うと、こくりと頷くのが見えたので、ジュリエットは自分のダンスカードにその紳士の名を書き込んだ。
付き添いは未婚の令嬢のお目付け役で、年上の親族の女性が務める事が多い。
妙な男を近付けない為に目を光らせるのが役目で、ジュリエットがダンスの申し出を受けられるのは、ソランジュのお眼鏡にかなった男性だけである。
たとえフェリクスからの扱いが悪くても、ジュリエットは歴史ある名門、フリージ侯爵家の娘である。父の取引先や兄の友人が声をかけてくれた為、ジュリエットのダンスカードは順調に予約で埋まっていった。
◆ ◆ ◆
王宮の舞踏室は、豪華絢爛という言葉が相応しかった。
豪華なシャンデリアの光を、女性の装身具やビジューが照り返し、色とりどりのドレスが鮮やかな色彩の洪水を作り出している。
壁を飾るのは金箔で縁取りされた美しい壁紙と高名な画家による風景画だ。そして、今が盛りの薔薇があちこちに飾られていた。
ジュリエットはパートナーだった男性と別れると一息つき、室内を見回してソランジュを探す。
すると、彼女は友人らしい婦人と、壁際の椅子に座り談笑していた。
何やら盛り上がっているようで楽しそうである。
ジュリエットはそれを確認すると、火照る体を冷ますためにテラスへと向かった。
ガラスの扉の向こう側には、ガーデンベンチが用意されており、既に何名かの先客がいた。
日中は汗ばむほどに暑くても、夜になって日が落ちると上着が必要になるくらいに冷え込む。それがフランドール王国の六月だ。
しかし外の冷たい空気が、今のジュリエットには気持ち良かった。
テラスに出ると、舞踏室からの明かりで、女王陛下ご自慢の薔薇園が艶やかに照らし出されていた。
一人で庭に出てはいけないと言われている。暗がりに、不埒な考えを起こす不届き者がいるかもしれないからだ。
だから、ジュリエットは空いているベンチに腰掛けて、庭の薔薇を鑑賞する事にした。
庭師が丹精した大輪のつる薔薇は、アーチ状のゲートに仕立てられ、薔薇園の中央にある噴水に繋がっている。
噴水は魔石灯でライトアップされ、流水が宝石のように煌いていた。
ひんやりとした夜風が、薔薇の香りをテラスまで届けてくれる。
立て続けに踊ったせいで、ダンスシューズに締め付けられた足は酷く疲れていた。
ジュリエットは足を休めるため、こっそりと靴を脱ぐ。ボリュームのあるスカートのお陰で誰にも見えないはずだ。
今は、自分の体力を考えて自主的に作っておいた休憩時間である。
少し休んだらまた場内に戻り、兄の友人と踊る予定だった。
しばらくぼんやりと庭を眺めていると、グラスを持った一人の紳士がこちらに近付いてきた。
「ごきげんよう、フリージ侯爵令嬢」
声を掛けてきたのは、フェリクスに勝るとも劣らない端整な容貌の青年だった。
精悍で筋肉質な第二王子と比較すると、目の前の青年の方が第一印象は『王子様』である。
混じり気のない金髪に青い瞳と、長身かつ細身の体つきに、濃紺のフロックコートが良く似合っている。絵画の中から抜け出してきたかのような、見目麗しい貴公子だ。
「こんばんは。初めまして。クロヴィス様」
ジュリエットは青年に挨拶をした。
「おや? 私をご存知なんですか?」
「ええ、だって有名ですもの」
その無駄に麗しい顔立ちと放蕩具合で。
彼――クロヴィス・レンスターは、レンスター伯爵家の三男だ。
非常に華やかな容姿の持ち主だが、フェリクスが可愛く思えるくらい、大変な遊び人だと言われている。
顔立ちが良くてちやほやされたせいで道を踏み外し、悪い遊びを覚え、伯爵家からは勘当寸前だと聞いた事がある。その噂に相応しく、クロヴィスの整った容貌には、どことなく退廃的な雰囲気が漂っていた。
実際に言葉を交わすのは今日が初めてだが、確かに彼の持つ雰囲気は、レンスター伯爵や、その後継者である長男とは違う。
レンスター伯爵家とフリージ侯爵家は同じ派閥に属する為、ジュリエットはクロヴィスの父や一番上の兄とは面識があった。
「私に何かご用ですか?」
「いつも傍にいる気難しい付き添いの姿が見えないので、思い切って声をかけてみました。私のような人間は、正面から近付いても、あなたのようなご令嬢とは話もさせてもらえませんから」
「だって普段の行いが大変華やかだというお噂ですもの。私だけでなく、年頃の女性は皆警戒いたしますわ」
「では、今まさに私はあなたに警戒されていますか?」
「ええ、残念ながら」
「あなたの為に果実水をお持ちしましたが、受け取っては頂けませんか」
「そうですね、喉は渇いておりませんから結構です」
何が入っているかわからないものを、見知らぬ異性から受け取るわけにはいかない。
断りながら微笑むと、クロヴィスは苦笑いを浮かべ、手にしたグラスの中身を一気に呷ってから、手近にあったガーデンテーブルの上に置いた。
「せめて、隣に座らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「どうぞご自由に。私はもう中に戻りますので、こちらのベンチはお譲りします」
そう告げて立ち上がると、ジュリエットの手首が掴まれた。
「放して下さい。叔母様に見つかったら叱られます」
「そう仰らずに、もう少し話し相手になって下さいませんか? あなたの信奉者を哀れと思って下さるなら」
「あなたが私の信奉者? 初耳です。信奉されても私はフェリクス殿下の婚約者で……」
首元にクロヴィスの左手が伸びてきたかと思ったら、ちくりと痛みが走った。
(なに……?)
視界がぐらりと歪み、足がもつれる。
その場に倒れ込みそうになったジュリエットの体を、クロヴィスの腕が受け止めた。
「薬を仕込む手段は飲み物に混ぜるだけじゃないんですよ、お嬢様」
耳元に聞こえたその囁きを最後に、ジュリエットの意識は深い闇の中に飲み込まれていった。