ある公爵令嬢の、幸せな婚約破棄

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表紙:

先行配信日:2025/01/24
配信日:2025/02/07
定価:¥880(税込)
リヴィングストン公爵令嬢のエレナに、突然、政略結婚の話が!?
義兄のイリアスと優しい家族に愛され育てられたエレナは、
一目惚れされた伯爵騎士のショーンを信じて、婚約生活をスタートさせる。
育てられた文化の違いや、ショーンの妹・クラリッサの嫌がらせで、
将来への不安を覚え始める義妹を、ひそかに案じてくれるイリアス。
ある事件をきっかけに、エレナは自分の本当の気持ちに気付いて……
e-ブラン創刊記念書き下ろし、世界で一番幸せな婚約破棄までの物語!
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 大陸の西に位置する、セルヴィグ王国。
 春のうららかな陽射し差し込む王城の庭園で一人の少女、エレナが大きな木に向かって精一杯背伸びをしていた。
「んんー!」
 僅かに桃色がかった銀の髪に、煌めく宝石のような青い瞳。白い肌は労働をしらない高貴な令嬢であることが一目で知れる。それもその筈、エレナ・リヴィングストンは、公爵の父とセルヴィグ国王の妹の間に生まれた、王家の血を引く令嬢だ。
 今日は伯母である王妃の茶会に招かれて登城したのだが、会の後に王城の庭を散策していた時に、大木の根本で必死に鳴く鳥の雛を見つけたのだった。
「もうちょっと……!」
 エレナの愛らしく整った顔は、今は必死な表情に彩られている。
 頭より少し上の枝の先へと、伸ばされる白い腕。その指先では小さな小さな鳥の雛がピイピイと鳴いている。侍女達が止めたのに、彼女は雛を巣に帰すと言い張って、なんと自分で木にしがみ付いているのだ。
 そんなお嬢様を、雛を驚かさないようにと厳命されて遠ざけられた侍女やメイドが少し離れたところでハラハラと見守っている。普通に考えれば、少し背伸びして枝先にある巣に鳥の雛を帰すことなど、大したことではない。何も難しくはない、筈だ。
 だがエレナ付きの使用人達は不安だった。何せ、このエレナお嬢様はどこに出しても恥ずかしくない、愛らしくお淑やかな令嬢なのだが、本人の自覚以上に鈍くさいところがあるからだ。
「やったぁ!」
 エレナは精一杯腕を伸ばすと、雛をなんとか無事鳥の巣に戻すことが出来た。思わず使用人達は拍手を送る。
 が、無事に雛を戻してやれてホッとした瞬間、背伸びをしていた足元がぐらりと揺らぐ。
「ひゃっ!」
「お嬢様!」
 フラフラとたたらを踏んだエレナは、後ろに倒れ込みそうになった。言わんこっちゃない、とばかりに侍女やメイドが悲鳴を上げて駆け寄るが、間に合わない。
 しかしその時、サッと現れた男性がエレナを抱き留めた。
「大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫です」
 家族と屋敷の使用人以外の男性とは滅多に言葉を交わすことのないエレナは真っ赤になって、慌てて彼から離れる。そこにすかさず、駆けつけた侍女のジーナがお嬢様を支えた。
「お嬢様!」
「ありがとう、ジーナ」
 ジーナに抱きしめられ、エレナはホッと安堵の溜息をつく。
 そこでようやく、改めて助けてくれた相手に視線を向けた。焦げ茶色の髪に緑色の瞳、陽に焼けた肌。背が高くがっしりとした体躯で、王立騎士団の制服を身に纏っている。
 騎士と交流のないエレナには彼が誰なのか見当もつかないが、王妃の茶会が開かれた後の庭園に来ることの出来る騎士は限られている。恐らく身分の高い騎士なのだろう。
「助けてくださって、ありがとうございました」
 エレナが騎士に向けて礼を言うと、侍女達も揃って頭を下げる。それを見て、むしろ件の騎士の方が慌てた。
「い、いえ! たまたま通りかかっただけです。怪我がなくてよかった」
 騎士はやや緊張した様子で頷き、ぎこちなく微笑む。その世慣れない様子に、エレナの緊張が解されて自然な笑顔になれた。
「私はリヴィングストン公爵家のエレナと申します。お礼をさせていただきたいので、お名前を教えてくださいませ」
「公爵令嬢でしたか! これは失礼を……」
「あの……」
 騎士が跪いたので、エレナは困惑する。どうしたものかと視線を巡らせると、ジーナが目配せをする。
「お嬢様。淑女として騎士に礼の言葉を。それで彼の行いに報いることになります」
 教育係も兼ねているジーナに言われて、エレナは頷いた。
「騎士様……あなたの行いに感謝します。助けてくださって、ありがとうございました」
 淑女として、と内心で唱えつつエレナは穏やかに微笑んで騎士に礼を述べる。彼は深く頭を下げ、暇を告げて去って行った。
 彼の背が見えなくなってから、エレナはへなへなとその場に膝をつく。
「お嬢様!」
「大丈夫ですか!?」
「う、うん。知らない人と話したのが、久しぶりで緊張しちゃっただけ」
 皆に支えられて立ち、エレナはそれでもヨロヨロとジーナに縋った。
 公爵令嬢という立場上、時折初対面の男性と接する時もあるがいつまで経っても慣れることが出来ない。箱入りで育ったエレナには、今日の出来事は特におっかなびっくりの出来事である。
 緊張と恥ずかしい気持ちで胸がドキドキと高鳴って、エレナは自分の胸元にそっと手を当てた。
 こんな時は、あの人に話を聞いてもらうに限る。
「お嬢様?」
「早く家に帰って、義兄様に報告したいわ」
「はい、すぐに」
 ジーナは素早く動くと、逸るエレナを半ば抱えるようにして馬車に導き、王城から連れ出してくれた。優秀な侍女は、主の心情を心得てくれている。
 そうしてほどなく到着したのが、リヴィングストン公爵邸のタウンハウス。広大な庭と白い石造りの屋敷はいかにも伝統的なデルヴィグ貴族の住まいだ。屋敷に戻ったエレナは、そのまますぐに長い廊下を通り抜けて、義兄の私室を訪問した。
「義兄様、義兄様、聞いて!」
 ノックもせずに扉を開いたエレナに、途端厳しい声が降り注ぐ。
「馬鹿者。ノックからやり直せ」
 エレナの義兄である、イリアス・リヴィングストンだ。
 男児に恵まれなかった公爵夫妻が後継とする為に、親戚から養子に迎えた人物。年はエレナの四つ上、青みがかった銀の髪と紅茶色の瞳の、冷たく整った容姿の美丈夫である。
 自分にも他人にも厳しい男だが、幼い頃から兄妹として育ったエレナには通用しない。
「それは後で! それより聞いてくださいませ!」
「俺は忙しい」
 次期当主として養子に来ただけあって大層優秀なイリアスは、既に現当主であるリヴィングストン公爵の仕事を大半引き継いでいて、多忙な日々を送っている。
「じゃあお仕事しながらでいいから、聞いて!」
 執務机でバリバリ書類を捌いているイリアスに駆け寄り、エレナは彼の周りをチョロチョロしながら訴えた。このまま本当に話し出しそうで、さすがに彼は手を止める。
「……そろそろ休憩時間だ。十分だけ、時間をやる」
「やったぁ! 義兄様、大好き!」
 椅子に座ったままのイリアスに、覆いかぶさるようにしてエレナはぎゅう、と抱きつく。が、イリアスはすぐに妹をソファに追い払い、控えていた従僕にお茶の用意を命じた。
「義兄様! 早く! 早く!」
 ちっともめげず、義兄に話したくてたまらないエレナは自分の隣の席をポスポスと叩いたが、つれないイリアスは向かいの一人掛けのソファへと座ってしまった。
「距離を感じる!」
「わざとだ」
「意地悪……」
 エレナはじろりと青い瞳で義兄を睨んだが、彼はしれっとした様子で運ばれてきたお茶のカップを傾ける。
「時間を短縮するか?」
「延長お願いします!」
「却下だ。早く話せ」
 イリアスはわざと懐中時計を文字盤が見えるようにテーブルに置き、すぐに脱線しがちな義妹に本題を促した。あからさまな動きにエレナは唇を尖らせたが、この義兄は有言実行の鬼みたいな男なので、十分が過ぎたら本当に追い出されてしまうだろう。
 せっかく多忙な彼の時間をもらえたのだ、今日の出来事を報告したくてたまらなかった。
 王城で王妃のお茶会後にあった出来事を話すと、みるみる内にイリアスの表情が険しくなる。
「あれ?」
「この馬鹿が! 雛を巣に帰すなど、使用人に任せろ! お前が怪我でもしたらどうする」
「しなかったもん!」
「その件の騎士のおかげだろう。俺から礼を送っておく、名は聞いたな?」
「……」
「……エレナ」
 はぁ、とこれみよがしにイリアスは深い溜息をつく。慌ててエレナは弁明を始めた。おかしい、素敵な騎士に颯爽と助けられたときめく話をしていた筈なのに、既にお説教の気配が濃厚である。
「ちゃんと聞きました! でも、名乗るほどの者ではありません、的に去っていかれてしまって……!」
「そこでも誰か使用人に追わせて、名と所属を聞き出すぐらいせんか」
「うう」
 ぐうの音も出ない。エレナが項垂れると、イリアスはすぐに切り替えた。
「まあいい。その時間、王妃の茶会後の庭園に入れた騎士は限られている筈だ。すぐに調べさせよう」
「義兄様ったら有能……」
「義妹が無能なので、より一層磨きがかかった結果だ」
「意地悪の舌鋒も鋭いことで……」
 エレナはしおしおと萎えたが、そこでイリアスは席を立つと、しょんぼりとしている妹の傍に跪いた。今度は何を言われるのかと警戒する。
「それで? 怪我は本当にないんだな? 脚を痛めたりもしていないか」
「え? うん。それは平気。本当に騎士様がバッチリ受け止めてくれたので、どこも痛くないわ」
 無事をアピールする為に、エレナは腕をぐるぐると回してみせる。
 イリアスの紅茶色の瞳が、義妹の頭の先から爪の先までじっくりと観察し、ようやく彼の気が済むまでに少々の時間がかかった。
「……よかった」
「義兄様……!」
「だが、二度とするなよ。毎回都合よく誰かが助けてくれるわけじゃない。お前は、自分が鈍くさい自覚を持て」
「ど、どんくさい……!」
 ガーン! とショックを受けるエレナ、そこでちょうど十分経った。ちょっと優しい雰囲気はどこへやら、あっさりとエレナは兄の執務室を追い出されたのだった。

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先行配信先 (2025/01/24〜)
配信先 (2025/02/07〜)