1 合コン
こいつの前では二度と泣かない、と決めていた男が十三年ぶりに目の前に現れた。
少年だった頃の面影を残したまま、大人の男性の振る舞いをする姿に空々しさを感じる。それでもオーダーであろうシンプルな紺色のスーツは、整えられた短髪と端正な顔によく似合っていた。
今日の幹事だというその男は、よく通る声で挨拶をした。
「竹本昴です。二十八歳です。今日はよろしくお願いします。せっかくなんで、みなさん色んな方と話してくださいね」
背筋を伸ばして自己紹介する好青年の爽やかな笑顔がこの場の雰囲気を和らげる。女の子たちがほんのり照れたように笑う中、紗矢香はそっとうつむいた。
ああ、やっぱりコウちゃんだ。笑うと細くなる切長な眼も薄い唇も、悪魔みたいで大嫌いだった。一気に気分が悪くなる。
竹本の言葉に従うように、周りの人間はお互いを探り合う笑顔を交わす。小洒落たイタリアンバルの一角で病院薬剤師と製薬会社の親睦会が始まった。平たく言えば合コンである。
開始三秒で早く終わってほしいと願う合コンなんてめったにないな、と紗矢香は目の前の泡が消え始めたビールを見つめた。
席も一番離れてるし、直接話しかけられることはないだろう。むしろ話しかけないでほしい。それぞれが簡単な自己紹介を続ける中、あふれそうな昔の記憶に蓋をした。
自分の順番が回ってきた紗矢香は、視線をテーブルに残したまま口を開いた。
「武田です」
それだけ答えて軽く会釈すると、何かを察した男性陣はそれ以上聞いてこなかった。今日は飲み食いに徹するか、と壁に貼られたおすすめメニューを紗矢香はこっそり流し見した。
紗矢香は別に来たくて来たわけではない。そもそもここに参加することは急に決まったのだ。頭数として座っているだけで紗矢香の役目は十分だろう、と今朝のやりとりを思い出した。
『お願い! 急に一人来れなくなっちゃったの! 来てくれない?』
朝からそう言って紗矢香に手を合わせるのは同じ職場の友人、菜那である。
出勤して更衣室で着替えていると、挨拶もそこそこに菜那は合コンの話を持ちかけてきた。ストッキングを履きながら紗矢香は怪訝な声で聞き返す。
『えー……それ、今夜の話でしょ?』
勤務直前に勤務直後の予定を頼まれてもイマイチ乗り気にはなれない。しかも合コンだ。何の手入れもせずに行けるほど若くはない。それに相手も相手だ。
『向こうはウチに出入りしてるMRなんでしょ? 半分仕事みたいなものじゃない。今日普通のTシャツにジーンズだし、着替えに帰る時間もないし……』
『いい! 全然いい! 紗矢香は雰囲気が美人だから!』
真剣な顔でフォローする菜那に、雰囲気以外は? と突っ込みたいのを我慢して紗矢香は更に聞く。
『他にもっと若い子いるじゃない。彼氏と別れたから合コン行きたいですってこないだユカちゃん言ってなかったっけ?』
『ユカちゃんはもうメンバーに入ってる』
『……』
『会費は私が持つから!』
もはや誘うというより懇願に近い。菜那がここまで頼むなんて何か理由があるのではないだろうか、と紗矢香は質問を変えた。
『……そんなに大事な合コンなの?』
『向こうの幹事の人に頼み込んで呼んでもらった人がいるから……』
眉を寄せて気まずそうにもらす菜那の本音に紗矢香は思わず笑ってしまった。なるほど、そういうことか。それなら仕方ない。
髪を一つに束ねながら紗矢香は菜那に言った。
『わかった、会費はいいよ。でもほんとに私は数合わせだからね。アシストはできないよ』
『紗矢香ありがとう!』
菜那は飛び跳ねそうなくらい喜ぶと、場所と時間はメールするから! とだけ言って更衣室を出て行った。
勤務後に合コンかー……もう少し可愛い服着てくればよかったな、と紗矢香はハンガーにかけた無地の黒Tシャツとスキニーパンツを眺める。ピアスとネックレスをつければまだマシか。
紗矢香は看護師だ。菜那とは年齢も今の病院に就職した年も同じせいかプライベートでもよく遊ぶ。就職をきっかけに上京した紗矢香には数少ない友人だ。
薬剤師の菜那は病院で扱う薬の関係でMRとはよく話すらしく、その顔馴染みのMRとの雑談から今日の話が持ち上がったそうだ。
二十八歳。結婚に繋がる出会いが欲しいと日頃から言っていた菜那が本気になっている。数合わせだろうと友人のメンツとチャンスを潰すわけにはいかない。久々に知らない人と話すのも気分転換になっていいかもしれない、と思いながら紗矢香は病棟へと向かった。
そして紗矢香は今、仕事の疲労と久々に目にした天敵への苛立ちをビールで流し込んでいる。
横目で視界の端を盗み見ると竹本は料理を取り分け、向かいに座る女の子に飲み物を勧め、その女の子から時折笑い声が聞こえるくらいには盛り上がっているようだ。
何もかもが白々しい。詐欺師にしか見えない。
その一方で菜那はお目当ての人と楽しそうに話している。今日参加したのは菜那のためなのだから、会費分のお酒と食事を大人しくいただこうとメニューを眺めていると声をかけられた。
「武田さんも薬剤師なんですか?」
「……いえ、私は病棟看護師です」
誰にも話題を振らず、話題に乗らない紗矢香に気を遣うように、正面の席の男が声をかけてきた。ええと、この人の名前なんだったっけ? と思いながら紗矢香は簡潔に答える。
男は紗矢香とは対照的に爽やかな笑顔でそうなんですね、と続けた。
「看護師の方も薬剤師さんと話す機会ってあるんですね」
「まぁ部署にもよりますけどね。私は菜那……こちらの幹事と同期なので仕事以外の方がよく会います」
「ああ、それで。一人薬剤師じゃない子も来るけど気にしないでくれって言われてたんですよ」
紗矢香以外はユカちゃんも含めてみんな薬剤部の菜那の後輩だ。このメンツの中では紗矢香は本当に数合わせなのだ。MR相手に共通の話題など持っていない。紗矢香は素直に謝った。
「だから薬のお話には付き合えないんです。ごめんなさい」
「いやいや、こんなところで仕事の話はしませんよ」
今日はそんな話をしに来たんじゃないんで、と男は微笑んで改めて名乗った。
そんなに愛想良く返してはいないが、この坂口とかいう三十二歳の男は紗矢香に話を合わせてくれた。最近見た映画の話に始まり、本当に仕事とは関係のない話を広げるあたりに営業力を垣間見る。
消化試合のつもりで参加した合コンだけど、それなりに楽しい時間を過ごせそうだとふと視線を落としたとき、坂口の左手が視界に入った。
ああ、なんだ……そういう人か。
「武田さんは今日はこの後どうされますか?」
そろそろお開きかという雰囲気になってきたとき、坂口が小声で紗矢香に聞いてきた。紗矢香が返事をする前に、坂口は声を落として囁く。
「よければ二人で飲み直しません?」
「私とですか?」
「……若すぎる子は苦手で」
坂口は顔を近づけ、試すような目で紗矢香を見つめる。ちらりと他の元気の良い女の子たちを一瞥し、再び紗矢香を見て目を細めた。
紗矢香はその視線に合わせ、微笑みながらそっと答えた。
「私は……奥様がいる方は苦手で」
同じく試すような目で見つめ返すと、坂口の顔が引き攣った。紗矢香は口に手を当てて囁く。
「日焼けしちゃってるんで指輪取ってもバレますよ」
「ハハッ……参ったな……」
にっこり笑って指摘すると、坂口は「残念だ」と笑って頭を掻く。紗矢香は手のかかる患者に指導するように話した。
「早く帰ってあげて下さいね」
そう言いながら、あとで菜那から向こうの幹事に文句を言ってもらおうと紗矢香は思った。合コンに既婚者が来ることなんてよくあることだ。真剣な出会いなんて期待していない。
それでも、もしかしたら。と思って行くのは自分だけではないはずだ。気が合うかもしれないと思った男性が既婚者だったと分かったときはやっぱり少し悲しい。
いや、今日はそもそも数合わせで菜那のために来ただけなんだし、そんなに文句を言うことでもないか。紗矢香は離れた席で楽しそうに笑う菜那を見て思い直すと、残ったビールを口に流し込んだ。
無事に会は終わり、店の前でこの後はご自由に、という流れになった。紗矢香は天敵の位置をなんとなく把握して、視界に入らないように距離を取る。
相変わらず意中の彼と話す菜那に遠くから口パクで「お疲れ」と手を振ると、菜那も「ありがと」と手を合わせて振り返す。これで今日の仕事は本当に終わりだ。仲良くなれたのならよかったと安心して、紗矢香は早々に一人で駅へと向かった。
夏の夜風は生ぬるいが不快ではない。人通りも多いし、まだ時間も早いしコーヒーでも飲んで帰るか、と駅前のカフェに入ろうとしたときだった。
「あのー……」
「……っ!」
後ろから呼びかけられた声に振り向いた瞬間、酒でぼんやりしていた頭の血の気が引いた。いきなり声をかけられたことよりも、声の主の姿に悲鳴も出なかった。
うそ。なんでこいつがここにいるの?
絶句する紗矢香に気づかない相手は、申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません、僕さっき一緒の合コンにいたんですけど分かります?」
「…………ええ」
何食わぬ顔で声をかけてきたのは竹本昴だった。紗矢香はどうにか一言だけ絞り出したが、頭の中は嵐のように混乱していた。
分かりますよ、あなたの実家の場所もご両親も知ってますよ。思わず言いたくなった言葉をごくりと飲み込む。
竹本はパッと顔をほころばせ、紗矢香に申し出た。
「一言も話せなかったのでちょっと気になっちゃって。僕もコーヒー飲もうと思ってたんでご一緒していいですか? ご馳走します」
「……」
最低。最悪。どういうつもり? からかってるの?
胸の奥にズンと重いものがのしかかるようだった。何なのその態度は。そんなに礼儀正しく話しかけて馬鹿にしてるの?
感情が冷えていくと同時に紗矢香の表情も硬くなる。竹本は紗矢香の強張る様子に慌てて言った。
「あの……すみません、いきなりこんな誘い方はやっぱり迷惑でしたよね。実は一言謝りたくて」