むかしむかし、あるところに。
暗闇のなかで寂しく泣いている、ひとりぼっちの少年がおりました。
これは、かかとをなくした赤い悪魔のお話です。
第一章 レナンド・ビルシュタイン
唄が聴こえる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
やさしくゆれる、風のような唄が。
レナンドは目を閉じた。髪を梳いてくれる愛しい人の指に、誘われるように。
知らなかった。
身を焦がすほどの、恋を。
その柔い肌に触れるだけで、涙が溢れてしまいそうになるほどの恋を。
愛することに恐れさえも抱くような、そんな激しい恋を。
俺は知らなかった。エリーゼに出会うまでは。
*
典型的な、政略結婚だった。
レナンドが居住する邸宅は、将軍として功績を残し、爵位を授けられた際に与えられたものである。
つまり、代々続く屋敷ではない。
故に、夜会等に出席しても陰口を叩かれることもしばしばあった。
とはいえ、この彫刻の如き美貌と、均整の取れた逞しい肉体である。そして先の戦いで数々の武勇伝を残した将軍という地位故に、ひと睨みをすればみな押し黙った。
しかし、地盤を固めなければせっかく与えられた地位もすぐに揺らいでしまう。だからこそ由緒正しき家柄の娘と婚姻関係を結び、その一族と親類縁者となることで己の地位を確立させる必要があった。
ただし、財はあれど、取ってつけたように爵位を与えられた「成り上がり」のビルシュタイン家だ。ましてや自分は、女、子どもにも容赦しないと名高い、「赤き悪魔のレナンド将軍」である。
一夜限りの遊び相手ならともかく、嫁ぎ先にと選ぶ貴族のご令嬢などどこにもいるはずもなかった。
そんな時だ。名門のキャベンディッシュ家から縁談の話を持ち掛けられたのは。
由緒正しきキャベンディッシュ家が、なぜ成り上がりのレナンドに一人娘を差し出そうとするのか。
理由は一つ、キャベンディッシュ家はここ数年で財政が大きく傾いているからだ。
つまり、苦渋を飲んで可愛い娘を差し出し、その代わりにレナンドから結納金を含む金銭的な援助を得ようという魂胆だ。
他家に援助を求めれば噂はすぐに広がり、見下される。それならば素知らぬ顔で、「良いご縁」だとばかりに娘の身を落としたほうがまだマシだと考えたのだろう。
いかにも権力思考の金持ちが考えそうなことだ。まったくもってくだらん。
だがそれは、レナンドにとっては申し分のない話だ。
花嫁代金は高くつくが、歴史あるキャベンディッシュ家と関係を結ぶことができれば、我がビルシュタイン家にもこれ以上ないほどの箔が付く。
だからこそ、結婚話はとんとん拍子で進んだ。
その間、肝心の妻となる「エリーゼ」という女の噂は至る所で耳に入ってきた。
自分勝手で、とんでもない性悪で、気に入らない侍女はすぐに折檻し、金遣いが荒く、無類の宝石好きのとんでもないお嬢様──エリーゼ・キャベンディッシュ。
公の場で彼女を見かけたことは一度もない。
なぜなら彼女は体が大層弱く、些細なことで体調を崩しては寝込んでしまうほどの虚弱っぷりらしい。屋敷の外に出ることはほとんどなく、人前にもなかなか姿を現さないとか。
故に友人と呼べるような存在もおらず、両親からは甘やかされ放題で育ったようだ。
火の無いところに煙は立たないという。きっと事実なのだろう。
実際、キャベンディッシュ邸を訪れた人々は皆、口を揃えてこう言っていた。なんでも、周囲を顎で使い、当たり散らすエリーゼ嬢のどうしようもなさには辟易するばかりだった、と。
傍に控える侍女たちの腕には、エリーゼによる虐待の痕が刻み込まれていたらしい。
プライドだけが山のように高く、絢爛豪華な部屋で大げさに我が身を憂う。
特筆すべき点など、その見目のみ。
まさに金持ちの娘にありがちな、典型的な我が儘お嬢様。
キャベンディッシュ家の夫妻はそんなどうしようもない娘を溺愛していた。
だというのに、目に入れても痛くないほどの可愛い一人娘のために、世界各地から名医を集め高額な医療を施し、さらにはこれ以上ないほどの贅沢をさせていたことも災いし、お家が潰れかけ、娘を差し出すことになったのだから本末転倒である。
幼い頃からの献身的な看病により、エリーゼの体はそれなりに強くはなった、らしい。それでも病弱であることに変わりはないので、子を成す場合には十二分に気を付けてほしいとも釘を刺された。無理だけはさせないように、と。
それは、暗に別の所で子を作ってもよいと言われたも同然だった。
正直、願ったり叶ったりだった。なにしろエリーゼ・キャベンディッシュを妻として迎え入れることに異論はなくとも、正式な妻として扱うつもりは毛頭なかったのだから。彼女の悪評などどうでもいい。ただ、妻として利用可能な「女」でさえあればいい。
元より、一人の女に拘るつもりは微塵もない上に、愛人も多数いる。
もちろん、我が儘なご令嬢に資産を食い潰されてはたまらないので、それなりの部屋と金は与えるつもりだが、特別優遇するつもりはない。仮に放置した結果怒り狂ったエリーゼに離縁を申し込まれても、キャベンディッシュ家の財政難を考えればそれも不可能だろう。
なにしろ、落ちぶれかけた家の名誉を守るために、実の両親に駒の一つとして扱われたのだから。
まぁエリーゼも、少ない持参金でどこぞの好色爺の後妻として嫁がされるよりはまだマシのはずだ。
互いの利点のみを貪り、見たくない部分には目をつぶる。始まる前から、すでに終わりが確定している白けた結婚生活──そう。
これは、特段珍しくもない、典型的な政略結婚というやつだった。
心など、伴っているはずがない。
*
「お初にお目にかかります……レナンド様。エリーゼと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
まず目に入ってきたのは、透き通る翡翠色の瞳。
両手を胸の前で合わせる可憐な仕草は想像通りで、反吐が出る。
レナンドに媚びを売ろうとしている顔だ。
初めて顔を合わせた少女の見目は、まぁそこそこだ。美少女の部類には入るだろうが、特別美しいと持て囃される顔ではない。こんな顔ざらにいる。それに、著名な画家をわざわざ呼び寄せ、大枚をはたいて描かせたらしい肖像画は既に送られてきており、一度目を通している。
顔立ちはそこに描かれた通りだったが、実物は眦がさほどつり上がっていない。それだけで少し気弱そうに見えた。
もう少しメリハリのついた体でもしていれば話はまた違ったのだろうが、背も低く華奢で、胸は真っ平ら。体は四本の枝がくっついた棒のようで、見るからに甘やかされて育った深窓のご令嬢といった出で立ちだった。
正直、好みではない。レナンドの隣を歩けば霞む、その程度の女だ。
レナンドが囲っている女たちの方がよっぽど男を知り尽くし、色香があって美しい。
唯一イメージと大きく異なる点があるとすれば、予想していたよりも身に纏っている装飾品が派手ではないということだろうか。むしろ、質素な部類に入るだろう。夫となる相手との初めての顔合わせだというのに、全体的に必要最低限の物のみで着飾っているようだった。
戦略はわかる。大方、財力難と余裕のなさをアピールし、同情を引くための策だろう。ご苦労なことだ。
だからこそ、レナンドは冷酷に言い放った。
「軽々しく俺の名を呼ぶな。耳が穢れる」
かすかに目を見開いたエリーゼは、一瞬、言葉を失ったようだ。
いい気味だ。組んでいた長い足を解き、椅子からゆっくりと立ち上がる。
「いいか、先に言っておこう。家の事情でおまえを迎え入れることになったが、おまえを愛することはない。後継ぎは愛人のどれかに産ませる。式も挙げるつもりはない」
レナンドの子を産みたいとねだる愛人は多い。正式な妾となれば、死ぬまで贅沢ができるからだ。何人かの女にそれぞれ子を産ませ、後継ぎとなりそうな才ある子どもをエリーゼとレナンドの子どもという名目で育てればいい。
地位や名声は欲しいが、特別血筋に対する拘りを持っているわけでもない。
それはレナンドの出自がそうだったからだろう。親の顔も知らなければ、兄弟姉妹がいるかもわからない。孤児院出身の身で、ここまで駆け上ってきた。
全て、己の力で。
だからこそ忌々しいのだ。自分の力で奪うでもなく、望むままに他者からなんでもかんでも与えられ、骨の髄まで愛され、幸福の中で生きているような人間が。
「その貧相な体で俺を誘惑しようとは思うなよ、エリーゼ・キャベンディッシュ──キツすぎる穴は固くご遠慮願いたいのでな」
せせら笑ってやる。
明らかな侮辱と存在否定をこめた一言に、てっきりエリーゼは顔を真っ赤にして怒り狂うのかと思っていた。なにしろ、家のために仕方なく成り上がりの家に嫁がされた挙句、夫となる人物に「穴」呼ばわりされたのだ。しかもビルシュタイン家に嫁いだ身だというのに、あえて旧姓で呼ばれて。
さぞやそのお高いプライドが傷付いたことだろう。
これを機に、レナンドと愛を交わそうだなんて厚顔無恥な夢はなど持たず、迷惑がかからない程度で好きなように生活すればいい。
そう思っていた、のだが。
「──はい、おっしゃる通りにいたしますわ」
エリーゼの返答は、レナンドの出鼻を挫くには十分すぎるものだった。
「軽々しく尊きお名前を口にしてしまい、申し訳ございませんでした。どうかお許しくださいませ、旦那さま」
ふわりと頬をほころばせ、華奢な指を組むエリーゼ。
「ずっと……ずっと、子ども頃から、旦那さまの元へ嫁ぐ日を夢見ておりました。こうして、たとえ名義上だけだとしても、お慕いする旦那さまの妻となれたことは、今の私(わたくし)にとっては無上の喜びですわ」
これは本当に予想外だった。思わず、耳を疑ってしまうほどに。
「何を、言っている」
今のは本当に、あのエリーゼ・キャベンディッシュの発言か?
エリーゼの後ろに控えていたレナンド付きの執事も、何事かとエリーゼを訝し気に見つめている。レナンドの気持ちを代弁しているかのようだ。
しかもだ。エリーゼはそっと睫毛を伏せ、たおやかな微笑を浮かべたのだ。
「両親には、私の方から願い出ました。どなたかと結婚するのならば、他でもない旦那さまのもとへ嫁ぎたいと。旦那さまの、妻になりたいと。旦那さまのお傍にいられるだけで、私は幸せなのです。旦那さまのためならば、どのような扱いを受けても構いませんわ」
ぴくりと頬が引き攣る。場が凍った。
嫁ぐ前から俺のことを慕っていた、だと?
会ったこともないというのに、自ら好んで嫁いできただと?
あり得ない。何を言っているんだこの女は。
押し黙ったレナンドを不思議に思ってか、エリーゼはきょとんと、小首を傾げた。羽根のように軽やかな仕草は、まるで穢れを知らぬ天使のような純真さで……ざわりと、肌が粟立つ。
レナンドを見上げる真っすぐな瞳から、どういうわけだか目が離せない。
──なんだ?
眉間に力を込め、今にも零れんばかりの大きな目からなんとか視線を逸らす。レナンドは軽く舌打ちをして腕を組んだ。
「ほう、貞淑な妻を装い俺に取り入ろうという魂胆か?」
思ってもみない言葉に驚いたのか、エリーゼはぱちくり目を瞬かせた。
「い、いえ、そういうわけでは……」
「残念だったな。俺はおまえみたいな、夫に付き従うだけの弱々しく自我のない女は嫌いだ。それに女には困っていない」
わざと棘を含ませて吐き捨ててやれば、エリーゼは困ったように眉を下げた。
そして侮辱されたことに激高することもなく、それどころか傅くように頭を下げた。
「……ご不快な思いをおかけしてしまい、申し訳ございません、旦那さま……」
これにも驚いた。あのキャベンディッシュ家の一人娘が、自分よりも身分の低い、成り上がりの男に頭を下げるなど。
しかも心の底から、申し訳なさそうに。
「──ふん」
じろりとエリーゼを最後まで冷たく一瞥し、相手の反応を待たずにくるりと踵を返す。すると、「あのう、旦那さま」と呼び止められた。
その柔らかく包み込むような音色に、思わず足を止める。
「まだ何かあるのか」
「はい。私の家のために、ご厚意を割いていただきありがとうございます。どうぞ私のこの身も、私の家も、お好きなようにお使いくださいまし。精一杯旦那さまにお仕えし、旦那さまがお望みになる役割を務めさせていただきますわ。それと……」
ちらりと後ろを伺えば、先ほどよりも深いお辞儀ときたものだ。
「──どうぞ末永く、よろしくお願いいたします」
もう一度鼻を鳴らし、踵を返す。
外に控えていた侍女長にエリーゼを案内するよう命じ、客間をあとにした。扉を閉める直前、潤んだ緑の瞳と視線が重なりかけ、つい勢いをつけて扉を閉めてしまった。
部屋全体が、軋んだ。
「……随分と低姿勢な方でしたな」
大股で歩くレナンドに後ろから声をかけた執事も、何やら考え込んでいる様子だ。
「騙されるな、サージェ、どうせ”フリ”だ。長くここで暮らしていけば、そのうち化けの皮も剥がれるだろうさ」
「そうでしょうか」
「当たり前だ。おまえは見ていなかったのか、あの苦労知らずな顔を」
どうせ資産欲しさに、愛想をつかされないよう本性をひた隠しにしているに違いない。
それにあの目が気に入らない。肖像画では青色だったが、本物は緑ときたものだ。貴族の女が自画像で、自分の髪色や目の色を変えさせるのはよくあることだが、あれでは仕方あるまい。
緑は、不吉の色だ。有害な毒物も緑、死斑も緑、遺体は全身が青緑色になると、どこぞの本に書いてあった。
緑とは、まさに死の色なのだ──禍々しいことこの上ない。
「あれのことは『奥様』とは呼ぶな。全員にそう伝えろ」
「承知いたしました」
それに、たとえ最初はそれっぽく振舞えていたとしても、人間の本質というのは変わらない。いつかきっとボロが出るだろう。
「なにが旦那さまだ。煩わしい……」
高飛車で我が儘で傍若無人で他者の財力に寄りかかる、ろくでもない女の本性がな。
*
それからというもの、レナンドはエリーゼを一切構うことなく、自分好みの愛人たちを別館に住まわせ、毎夜通った。
時折、廊下でエリーゼとすれ違っても、エリーゼを無視して通り過ぎる。声をかけてやる必要性も義理もなかった。
しかし、エリーゼは変わらず、「ごきげんよう、旦那さま」とスカートの裾をつまんで持ち上げ、淑女のように微笑みかけてくる。
そしてエリーゼがここに嫁いできてから、数ヶ月後。
最初に懐柔され始めたのは、適当に配置させていたエリーゼ付きの侍女たちだった。
てっきり、夫に相手にされずストレスが溜まっているエリーゼにいびられているのかと思いきや、むしろ彼女は侍女たちに、女主人とは思えぬほどの低姿勢で接しているらしい。
誤って手を滑らせた新人がエリーゼお気に入りのティーカップを割り、彼女の服を紅茶で汚してしまっても、エリーゼが激高することはなかったという。
そればかりか、むしろ粗相をした相手を気遣い、「まぁ、気にしなくていいのよ。そんなことより、怪我はなかったかしら?」と、慰めたらしい。
さらには、割れた陶器のせいで指を切ってしまった侍女を、「ここにお座りになって、ね?」と座らせ、傅いたエリーゼ自らが手当てするというとんでもないことも仕出かしたようだ。
しかも時には、メイドの仕事の手伝いをしようとする、とか。
あまりにも露骨な行動に、呆れた。
レナンドは懐柔されないというのに、そこまでして化けの皮を被って何になる。
「おい」
顔合わせ以降、レナンドの方からエリーゼに話しかけたのはこれが初めてだった。
エリーゼはレナンドに声をかけられたことがよっぽど嬉しかったのだろう。
「はい、なんでございましょう、旦那さま」
ててっと、花を飛ばしながら近づいてきた少女を冷ややかに一瞥する。
「侍女の怪我の手当てをしたと聞いたが……?」
「え……」
ぴたりと、エリーゼが足を止めた。
ぱくぱくと震えている唇は、何か言い訳を考えているようだ。
「いえ、手当てだなんて……とんでもございません、私は、ただ──」
「淑女の次は聖母の真似事か? 善人ぶるなよ……虫唾が走る」
続くエリーゼの言葉を遮り、吐き捨ててやった。だいぶ胸がすかっとしたが、マントをひるがえす直前、視界に飛び込んできたエリーゼの表情がやけに引っかかった。
凍り付いた顔。
どうせ、図星を指されてショックでも受けたのだろう。
レナンドには関係のないことだ。
勝手に傷付いていろ。
*
「レナンド様、エリーゼ様は血が苦手のようです」
「だからなんだ」
「侍女の傷の手当てをしながらも、ずいぶんと青ざめ、震えていらしたとか」
「──で? なにが言いたいサージェ。冷たい態度を取り過ぎだとでも?」
苦手であったにも関わらず、侍女を心配して手当てまで施したお優しいエリーゼ様に感銘を受けろとでも言うのか、冗談じゃない。
「いえ。今夜もお食事はあちらでお取りになられますか?」
あちらというのは、愛人たちのいる別館のことだ。
「当たり前だろうが。いちいち聞くな」
「さようでございますか。早くお戻りになられることを、心よりお待ちしております」
執事の言葉の節々に滲む棘が、いやに耳障りである。
「……あれを放っておくなと言いたいらしいな、おまえは」
「いいえ、とんでもございません」
今思えば、この頃から執事もエリーゼに関心を抱き始めていたのだろう。エリーゼをまったく顧みないレナンドに対して、チクチクと釘を刺してくるようになったのだから。
また、エリーゼはここにきてからずっと一人で食事を取っていたのだが、いつのまにやら独りぼっちだったエリーゼの傍には、侍女たちやそれ以外の使用人も控えるようになり、皆で楽しく食卓を囲んでいるらしい。
さらに驚いたことに、料理長までもがエリーゼの元を訪れるようになったというのである。
なんでも食事を終えたあと、必ずエリーゼが感謝を伝えに厨房まで足を運んでくるものだから、手間を掛けさせないため料理長の方が来るようになったとか。
そんな迷惑行為は今すぐに止めさせろとサージェに言ったのだが、料理長は迷惑がってはいないようで、むしろ、興奮した面持ちでエリーゼ様にあれもこれも美味しかったと感激してもらえることが嬉しいようです……と報告を受けた時は愕然とした。
話には聞いていたがにわかには信じられず、気になって愛人との食事を早めに済ませて食堂を覗いてみると、報告通りの和気あいあいとした笑い声が聞こえてきた。
「エリーゼ様、お水をお入れ致しましょうか?」
「ええ、いただこうかしら。いつもありがとうエミリー」
「いえ、そんな」
「また喉に食べ物が詰まった場合、大変なことになってしまいますからねぇ」
「まあ、イヤだわケリーったら、それはもう言わない約束でしょう?」
「ほう、そんなことがあったのですかな? エリーゼ様」
「だ、だって……貴方の作るお料理が美味しくって。きちんと噛まずに飲み込んでしまいましたの。そうしたらお魚さんの欠片がね……?」
「ふふ、あの時のエリーゼ様ったら」
「ここにいる全員が大慌てで」
「は、恥ずかしいわ、忘れてちょうだい。このお魚さんは、絶対に詰まらせないわ」
恐る恐る、小さな口で魚の肉をあむっと食んだエリーゼに、どっと笑いが起こる。
それはまさに、団欒と呼べるものだった。
エリーゼたった一人のために、屋敷の多くの人間が食堂に集っているというのは、事実だったらしい。
──あの気難しい料理長め。レナンドの所へは来ないくせに。腕は確かだが、そのうちクビにでもしてやろうか。
「エリーゼ様ったら、そんなに急がれてはお召し物が汚れてしまいますよ?」
「そうね、ゆっくり食べるわね、ゆっくり。ああ、でも本当に美味しい……! 頬が落ちてしまいそうだわ」
頬に手を添えて、うっとりと目を細めるエリーゼ。そんなエリーゼを、和やかに、穏やかに見つめる周囲たち。せっせせっせと親鳥のようにエリーゼの世話を焼く侍女たちの腕には、エリーゼによる虐待の痕は一切なかった。
すぐに剥がれると思っていたエリーゼの化けの皮は、なかなかにぶ厚いらしい。
*
相変わらずエリーゼは、着々と使用人を懐柔している。
そして廊下ですれ違うだけのレナンドに頭を下げ、にこやかな笑顔を向けてくる。
早朝、別館から屋敷へと戻ってくる際にも、使用人に混じり玄関先までちょこちょこと出迎えてきては、「お帰りさないませ、旦那さま」と、馬鹿の一つ覚えのようにスカートをつまんでレナンドに挨拶をしてくるのだ。
レナンドは、エリーゼ以外の女を抱いてきたばかりだというのに。
ありえない、と思った。こんな女いるはずがないと。存在すら完璧に無視し、愛人たちとは違って手土産も渡さない、愛さえも与えようとしない男に嫌な顔一つしない女など。
レナンドがこれまで関わってきた「女」という存在は、宝石や高価な物に目が無く、身分の高い男の財力に寄生する生き物だ。そして、自分を愛する男を求める。
男から向けられる情こそが、女にとっての存在意義だ。高価なプレゼントとそれなりの金と甘い言葉さえ与えておけば、女は勝手に愛されていると思い込み、自ら腰を振ってレナンドに尽くしてくれる。
そう、情を与えるフリをすればするほど、レナンドの「女」たちは豊満な体とテクニックと色香で、レナンドの性的欲求を満たしてくれるのだ。
故に、噂に聞いていたエリーゼもまさにそんな女なのだと思っていた。
しかも相手は、レナンドよりも身分の高い、生粋のご令嬢だ。
レナンドが適当に見繕い囲っている女たちよりも高飛車で、世間知らずで気ばかりが強く、愛人に嫉妬し、使用人にも力を振り翳す質(タチ)の悪い存在だろうと。
だからこそ冷遇していた。
どうせそのうち、この家の中でも孤立するはずだと。
ところが現実はどうだ。まだ半年も経っていないというのに、レナンドが主人であるはずのこの屋敷はエリーゼの色で染め上げられてしまった。
我が儘なご令嬢だったはずのエリーゼは、ビルシュタイン邸の住人たちの心を完全に掌握してしまったのである。
現に、女たちから、「エリーゼ様に罵詈雑言を浴びせられた」と告げ口されることも多々あったが、「愛人の方が嘘をついている」と、エリーゼ付きの侍女たちからは口を揃えて弁明される。嫉妬のあまり怒りをぶつけているのはエリーゼではなく愛人の方で、むしろエリーゼが反論しないことでさらに嫌がらせに拍車がかかっているのだと。
実際、女が数人、出会い頭にエリーゼに嫌味を吐き捨てている現場を目撃した。
「まぁ、キャベンディッシュ家のお嬢様ではないですか。今日もお一人で、お庭のお散歩かしら」
「私たちはこれからレナンド様とオペラを鑑賞しに行くのですけれど。よろしければご一緒いたしませんこと?」
「もちろん、レナンド様の許可が下りたら、ですけれど……」
くすくすと嘲る女たちに、エリーゼは言い返すこともなく俯いていた。レナンドの愛人という、自分よりも身分が下の者たち相手であっても、だ。
しかも、エリーゼを庇おうと侍女が反論しようとしても、「いいのよ」と柔らかく制するばかり。
……噂に聞いていたエリーゼと実際のエリーゼには、どうにも乖離がある。
なにしろ、直接関わることも少ないであろう庭師の男衆も、庭を歩くエリーゼに、「毎日、素敵なお庭にしてくださってありがとうございます」と声をかけられると、デレデレと鼻の下を伸ばすようにまでなったのだから。
年若い庭師の男から、切り取ったばかりの一輪の薔薇を差し出され、小さな両手でそっと受け取るエリーゼ。
薔薇よりも可憐に咲きほこる、その笑顔。
レナンドの元へ嫁ぐ日を夢見ていたと、言っていたくせに。口から出まかせだと思ってはいたが、初心な乙女のように赤く色づく頬に、何度目になるかわからない舌打ちが漏れる。
どうやらあの女は、「男好き」でもあるらしい。
──夫のある身でありながら、不特定多数の男に頬を赤らめるなど。
そんな忌々しい女の姿を、二階の窓から見降ろす日々がただ、過ぎた。
*
ただひたすらに、歩く。
馬車も通れないほどの細い道を進んでいく。いや、もう道とも呼べないのかもしれない。人足が絶えて久しいらしい小道には背の高い草が生い茂り、レナンドの行く手をありとあらゆる方法で阻んでくる。
来るなと、いうことなのかもしれない。
だが進む。両の足を交互に前に出す。
歩みを止めるな。
進め、進め。
進め。