1
まだ日も落ち切っていない寝室に、淫らな水音が響く。
部屋に鎮座する小さな寝台は、年季が入っているせいでギシギシと音を立ててうるさい。一人で寝るには申し分ない広さだけど、二人で寝るには狭すぎる。そのうち買い換えようと思って結局機会を逃したなあ、と熱に浮かされた頭で思った。
「こっち向いて」
「んっ……」
余所見は許さないとばかりに頬を挟まれ、視線を合わせられる。黄金色の虹彩に浮かぶ真っ黒い瞳孔が、ミリアをまっすぐに見つめた。人間のそれとは異なる瞳は、ミリアだけを映す。心臓がわけもなく昂るのを感じた。ミリアはこの目に弱い。
じいっと見つめられると、なんでも捧げてしまうし、なんでも許してしまう。獣人には何かそういう特殊魔法があるのだろうか。そう思って尋ねたことがあるけれど、鼻で笑われるだけに終わった。どうやら違うらしい。
気高い狼をルーツに持つ彼――ウォルは、所謂獣人という種族だ。とは言っても、もふもふの耳とふさふさの尻尾を持つ以外、人間と変わりないように見える。ただ一つ決定的に違うとすれば、この国では昔被差別対象だったことだろうか。
――まさか、獣人と暮らすことになるだなんて。
たまにその事実を思い出しては、新鮮に驚く。ウォルと暮らすようになったのは四年前のことで、体を繋げるようになったのはその一年後のことなのに。いつまで経っても慣れないものである。
「なに考え事してんの?」
「へっ、し、してないよ」
「ふうん?」
あまり納得はしていなそうだったけれど、ウォルがそれ以上追及することはなかった。ミリアの胸に手を伸ばし、乳首を指の腹で撫でる。背筋がそわそわするような感覚に身を捩っていると、ウォルが口を開いた。
「ミリア、気持ちいい?」
こくこくと頷くと、「ふうん」と聞いておきながら興味のなさそうな相槌が返ってきた。いつものことなので、特に気に障ることもない。相変わらずだなあと思いながら、ウォルとの関係に想いを馳せる。
四年前、大枚叩いてウォルを「買った」ミリアは、彼と契約を結んだ。俗に言う「奴隷契約」と呼ばれるものだけれど、ミリアがウォルを奴隷として扱ったことはないし、ウォルがミリアを主人として敬ったこともない。
ミリアは仮にもご主人様だけれど、「ご主人様」だの「ミリア様」だのと恭しい呼ばれ方は揶揄う以外の文脈でされたことはないし、そもそも丁寧に呼んでほしいとすら思ったことはない。
ミリアのことを呼んでくれるのなら、そばにいてくれるのなら。呼び方なんて瑣末なことは、なんでもよかった。親を亡くし、一人で暮らすミリアにとっては、名前を呼んでくれること自体が嬉しかった。
「ウォル」
「なに?」
名前を呼ぶと、ヒクンと耳が動く。もふもふの耳が触れたら柔らかいことは知っている。思わず手を伸ばしかけたけれど、触れることなく引っ込めた。まだウォルがこの家に来て間もない頃、「耳を触ってもいい?」と尋ねて、「絶対に嫌」と顔を顰められたのを思い出したからだ。
「耳、触りたいの?」
別にいいけど、と頭を寄せてくれたけれど、やんわりと胸を押して首を横に振る。昔は「絶対に嫌」とまで言われたことを思えば、「別にいい」と許可をもらえるようになっただけで十分だ。
いつから許してくれるようになったんだっけ、と記憶を辿るとすぐに思い出した。確か三年前の収穫祭、隣村の女の子たちと上手く話せず落ち込むミリアを、不器用に慰めてくれたときからだ。
あれから幾度となく、ミリアがへこんでいるときには耳を触るように促してくれる。が、結局それ以降一度も触れたことはない。慰める手段としてそう言ってくれているだけで、本心では触られたくないであろうことはよくわかっている。そうでなければ、あれほど顔を顰めて「絶対に嫌」と最初に拒絶することもないだろう。
首を横に振るミリアに、ウォルは不満そうに唇を尖らせる。
「俺が触っていいって言ってんのに、なんで触んないわけ?」
「だって、前に絶対嫌って」
「何年前の話してんの。それにその後触ったじゃんか」
唯一耳を触らせてもらったときのことは、ウォルも覚えているらしい。「一回だけだもん」と返すと、「ミリアのくせに生意気」と頬を軽く摘まれた。仮にもご主人様に対しての態度とは思えないけれど、それも今更である。
触れられる指の感触は心地いい。ウォルに触れられると安心すると思うようになったのは、抱きしめられるたびに嬉しいと感じるようになったのは、一体いつ頃からだろうか。
にへ、と隠しきれない笑みを浮かべると、何か思うところがあったのだろうか。少し俯いたかと思えば、強く腰を掴まれた。ぐ、と潰すように奥の方目掛けて腰を押し付けられ、喉が仰け反る。悲鳴のような嬌声が漏れた。
「ひあっ……そこ、やだあ……」
「やじゃないでしょ」
そう言って意地悪く突き上げる。体を重ねるようになって幾許か経つけれど、肉と肉がぶつかり合う音の卑猥さにはいまだに慣れない。
発情期のウォルにそうとは知らず、「何かできることはないか」と声をかけてしまったのは、彼がこの家に来て一年が経つ頃。獣人にも男女のあれこれにも詳しくないミリアは流されるままに初めてを捧げてしまったけれど、自らの迂闊さを自覚したのは随分経ってからのことだった。
一度体を許されてしまえば、二度も三度も変わらないと思われたのだろうか。それから三年弱、ウォルに求められるがままに体を重ねている。結構な頻度で抱かれているせいか、何も知らなかったミリアの体は、すっかり躾けられてしまった。今ではキスだけでお腹の奥が疼くほどだ。
抱きしめられて息ができないぐらいに口付けられると、全身から力が抜けてふにゃふにゃになってしまう。くったりするミリアを見つめるウォルの瞳は、普段からは考えられないほどに優しい。
ウォルにとってミリアは、他よりマシなご主人様で、都合のいい性欲処理の相手。それだけでしかないということは、ずっと前からわかっている。わかった上で、ミリアはウォルに手を伸ばす。
「やっ、あっ……も、いく、いくっ」
「ん、いいよ。俺もいきそ」
「ひああっ……」
脳天から背中にかけて電流が走るような、一際強い快楽。ミリアが気を遣るのと同時に、ウォルが自身を引き抜いた。吐き出された白濁が、ミリアの薄い腹を汚す。何かが欠けてしまったような寂しさと喪失感から、思わずウォルにしがみついた。
はあ、はあ、と息を整えていると、「しょうがないなあ」と耳元で笑うような声がする。くすぐったさに身を捩るミリアから少しだけ体を離すと、触れるだけのキスをされた。
ぎゅう、としがみつく力を強める。隙間なく肌を重ねていたら、ミリアのウォルへの想いは伝わるだろうか。知って欲しいとも思うし、知られてほしくないとも思う。
ミリアを抱きしめ返す手は優しくて、離れ難さと愛おしさに泣きたくなった。
2
ミリアの両親が亡くなったのは四年前のこと。不慮の事故によるものだった。
一人っ子で親戚も遠方に住んでいるミリアに、両親の死を嘆き悲しむ暇はない。近所の人に手伝ってもらって簡単な葬儀を執り行うと、あっという間に一人での暮らしが始まった。ミリアの家は、近所の人と協力して農業を営んでいる。両親が亡くなってもそれは変わらない。日中は畑に出て、日没と同時に家に帰る。それがミリアの毎日だ。
魔法が当たり前に存在するこの国において、ミリアの魔力はそこまで高くない。せいぜい指の先に火が灯るぐらいのものなので、農業には活かせたり活かせなかったりだ。へとへとの体を引きずって帰ってくると、質素な食事を口にして明日に備えて横になる。
両親が生きていたときから変わったことといえば、家で喋ることがなくなったことだろうか。一人暮らしだから当たり前だけれど、耳鳴りがしそうなぐらいに静かな夜はやけに長かった。
ウォルと出会ったのは、そんなときだった。
そもそもの発端は、「そろそろ結婚相手を探すのはどう?」と近所のおばさんに勧められたこと。両親が亡くなる前から何かと気にかけてくれたおばさんは、親を亡くしたミリアがずっと独り身で、友達もいないことを心配していた。
十七歳のミリアは、十分結婚適齢期に差し掛かっている。ミリアの住む村に同年代の人はいない。そこで、おばさんの知り合いの家を訪ねるため、半ば強引に隣村まで連れて行かれた。
聞いたところによると、王都に働きに出ていた息子さんが仕事を辞めたとかで帰ってくるらしい。年齢もミリアの二つ上で釣り合いが取れる。明日にでも結婚式を挙げる手筈を整えそうな勢いのおばさんは、持参金を持ってくるようミリアに言い聞かせた。圧に負けて大人しく従ったものの、会ったばかりの人と結婚なんてできる気はしない。
大丈夫なのだろうか、というミリアの心配と不安は見事に的中。おばさんの知り合いの家で待ち受けていたのは、顔面蒼白で申し訳なさそうにするおばさんの知り合いだった。
ミリアに紹介されるはずだった青年は、王都で身分違いの恋をしたらしい。厩番として雇われた家のご令嬢と恋に落ち、そのことが旦那様にバレて解雇されたので、実家に戻る予定だったそうだけれど。恋は障害があった方が燃えるのだろう。青年はご令嬢と駆け落ちし、事情を知らせる手紙だけが実家に送られ、そのあとは行方知れずだそうだ。
当てが外れてしまったことを何度も謝るおばさんと、おばさんの知り合い。申し訳なさそうな二人とは裏腹に、ミリアはほんの少しほっとしていた。いずれは結婚しなければならないことはわかっているけれど、初対面の人と今すぐ結婚というのはさすがに心の準備が間に合わない。逆に良かったのかもしれない、とさえ思っていた。
積もる話がありそうな二人に断りを入れ、ミリアは滅多に来ない隣村を散策する。ミリアの住む村よりも圧倒的に大きくて人口も多いこの村は、なんだかゴミゴミしていて忙しない。人混みを避けるようにしてぼんやりと歩くうち、辿り着いたのは村外れの路地裏だった。
なんとなく薄暗くて寂しい雰囲気は、早く帰ろうと思わせるには十分だった。しかし、来た道を引き返そうとしたところで薄汚れたテントが目に入る。年季が相当入っているのだろう。白地のシンプルなテントは、砂埃やシミでかなり汚れている。村の雰囲気に全く馴染んでいなくて、なんだかそこだけ雑に切り貼りされているようだ。
――何を、売っているんだろう。
露天商の類だとは思うけれど、何が売られているのかはわからない。ふらふらと吸い寄せられるように近づくと、入り口が開け放されていることに気がついた。中なんて覗かない方がいいに決まっているのに、怖いもの見たさとでもいうのだろうか。足を止めることができない。テントとの距離が近づくのに比例して、心臓の音も大きくなる。中には何があるのだろう。テントからは、土と獣の臭いが漂った。
立ち止まり、そっと中を覗いてまず見えたのは、錆びた鉄格子。大きくて頑丈そうな檻の一部だ。次いで見えたのは、檻の中で首輪に繋がれた人。土まみれの足に汚れた尻尾、萎びた耳――。檻の中にいるのが誰かを認識した瞬間、このテントが何を売っているのかも理解する。奴隷だ、それも狼の獣人の。
「えっ……!」
飛び退くように後ずさり、その拍子に足がもつれて尻餅をついた。心臓がバクバクと音を立てる。王国には少なくない数の獣人が暮らしているけれど、ミリアが目にするのは初めてだ。
獣の耳と尻尾を持ち人間よりも力の強い彼らは、昔から理不尽な差別を受けていた。獣人というだけで住む場所を追われたり、入れる場所を制限されたり――奴隷として扱われたり。何十年も前に一斉蜂起が起きたことで、獣人は人間と対等になったはずだけれど。
一部の地域ではいまだに差別意識が根強く、闇市では奴隷として売買されているらしい。うっすらと噂に聞く程度のことを、まさか目の当たりにするとは思わなかった。
尻餅をついたままのミリアを、暗がりで爛々と輝く黄金の瞳がじっと見つめる。何の反応も返さないけれど、眉間に皺を寄せているあたり不愉快ではあるのだろう。はく、はく、と何かを言おうとするけれど何一つ言葉にはならない。腰が抜けて立ち上がることもできない。そのうち、座り込んだままのミリアが鬱陶しくなったのか、獣人は気怠そうに口を開いた。
「見せ物じゃないんだけど」
険のある声が心臓に突き刺さる。冷たくて、誰も寄せ付けない目。早く立ち上がって帰らなきゃ、と思うのにどれだけ力を入れても上手く立てない。妖しく輝く瞳から目を逸らせないままでいると、向こうからふいと視線を外した。
「早くどっか行かないとお前も奴隷にされるぞ」
その乱暴な口調と悔しそうな声音が、どうしてかミリアの関心を引いた。脅し文句のようでいて、ほんの少し気遣っているようにも聞こえる。よく見ると、狼の獣人はミリアと歳が近そうだ。着ている服はボロボロで、栄養が足りていないのか頬がこけている。ボサボサと伸び放題の髪は、元は銀色に輝いていたことが窺えるけれど、今はくすんで薄汚れていた。
あまりに非日常な空間に腰を抜かしたけれど、話ができそうだとわかると安心感を覚えてしまう。初めて目にする獣人を前に、恐怖心というものは不思議と湧かなかった。代わりに湧いてきたのは、きっと良くない類の憐憫と使命感だ。立ち上がり、暗いテントの中へと足を踏み入れる。一層強くなったすえた匂いに顔を顰めつつ、口を開いた。
「いくら……」
「は?」
「いくらお金を払えば、あなたを、買える?」
「……本気で言ってんの?」
正気を疑う目で見つめてくる彼に、こくりと頷く。とんでもないことを口走っている自覚はあった。奴隷を買うだなんて倫理にもとる行為を、亡くなった両親はどう思うだろう。けれど、非力な人間の少女であるミリアに頑丈な檻は壊せないし、お金を払う以外に彼を解放する手段はない。
会ったばかりで名前も知らない彼を解放する義務なんてどこにもないけれど、ここで見捨てて帰ったら一生後悔することは目に見えていた。偽善でもお節介でもなんでもいい。できることがあったのに何もしなかった――そんな後悔を抱きたくなかった。
「……」
そんなミリアを、金色の瞳はじっと見つめる。世間知らずな小娘は、自由になるため利用できそうだと思ったのだろうか。少し考え込んだ末に彼が口にしたのは、ミリアの手持ちでギリギリ足りる金額だった。幸いにも、持参金という名の大金は使う当てがなくなってしまったばかり。今ここで使うべきなのだろう。
「私、ミリア。あなたは?」
「……ウォル」
話し声が聞こえたのだろう、奥から出てきた奴隷商に話をつける。明らかに奴隷を買いそうにないミリアに驚いたのか、目を見開いたけれど何も言わなかった。お金を出す限りは客だと認識しているのかもしれない。差し出された契約書にサインすると、文字が浮き上がりウォルに入っていく。
こうすることで、奴隷は主人に危害を加えたり、逃げ出したりすることができなくなり、他の人が勝手に契約することも防ぐらしい。契約は主人からしか破棄できず、破棄しない限り魔法で奴隷を縛ることができると言っても過言ではない。
とんでもないことをしてしまったのでは、と悔やみかけたけれど今更だ。あっさりと契約を終え、テントの外へと踏み出す。テントの中にいたのはほんの一瞬なのに、晴天が随分久しく感じられた。振り向くと仏頂面のウォルが佇んでいる。
明るいところで見ると、体中のあちこちが汚れと擦り傷に塗れていて、日常的に痛めつけられていたことを嫌でも察してしまった。それでも逃げ出すことができなかったのは、ミリアが結んだ契約と同じような魔法で、抵抗を封じられていたからなのだろうか。よくわからない。
「あの、こっち」
「……」
ミリアが声をかけるけれど、返事はない。勝手なことをしたミリアに怒っているのかもしれない。付いてきてくれるだろうかと不安に思ったけれど、ミリアが歩き出すのに合わせてウォルもノロノロと足を動かす。その様子にほっとしつつ、まずはおばさんのところに戻らなきゃと考える。おばさんはきっと驚くだろうけれど、後悔はない。これでよかったんだと言い聞かせ、来た道を引き返した。
これが二人の出会い。ミリアとウォルが十七歳のときだった。
3
使い道がなくなってしまったとはいえ、持参金を注ぎ込んで獣人を買ってしまったミリア。彼女の足取りは重い。
――やっぱり、とんでもないことをしでかしてしまった気がする。
奴隷市場を後にし、おばさんの知り合いの家へと戻る道すがら、今更なことが頭を過ぎる。自分で決めたことに、その行動に、何の後悔もない。あそこでウォルを見捨てていたら、それこそ一生後悔しただろう。けれど、本当に方法はこれしかなかったのだろうか。自由にしてあげたい、というある種傲慢な願いを叶える方法は他になかったのだろうか。
ちらり、とそっと後ろを振り向く。ノロノロと付いてくるウォルはそっぽを向いていて、表情は窺えない。機嫌が良さそうでないことは確かだ。ここから出してくれ、だなんて一言も言われていないのに勝手な真似をしたミリアを、ウォルはどう思っているのだろうか。契約したばかりだけれど、今すぐ破棄した方がいいのかもしれない。そう思い、口を開こうとしたときだった。
「み、ミリアちゃん? 後ろの方は誰?」
「あ、おばさん」
重たい足取りでも、歩いていれば目的地には辿り着くらしい。気づけば、おばさんの知り合いの家にまで戻ってきていた。散策に出かけて戻ってこないミリアを探しに行こうとしてくれたのだろうか。おばさんは家の前で、ミリアの後ろにいるウォルをギョッとして見つめている。その後ろには、おばさんの知り合いが怯えたような目をウォルに向けているのが見えた。
獣人であるウォルに対してか、それとも出かけたかと思えば明らかに曰くがありそうな獣人を連れ帰ってきたミリアに対してか。どちらにせよ、二人が引いていることは痛いほどにわかった。
「えっと……」
どこから説明したものか、と思いつつ最初から説明する。辿々しくミリアが話す間、ウォルは他人事のように爪を見ながら突っ立っていた。話が進むにつれ、どんどんおばさんの顔が曇る。やっぱり間違ったことをしたんだ、と第三者目線で痛感してしまい、気持ちが一層落ち込んだ。
「家に連れて帰るの?」
「う、うん」
「そのあとは? まさか一緒に暮らすつもり?」
「一応、そのつもり……」
そう告げたときのおばさんの顔ときたら。目を見開き、「元いた場所に返してきなさい!」と叫びそうなのをすんでのところで飲み込んだのがよくわかった。それはそうだろう、犬猫を拾ってくるのとは訳が違う。血の繋がりはなくとも、親を亡くしたばかりのミリアを何かと気にかけてくれているのだ。結果として破談になったとはいえ、縁談の世話まで焼いてくれたのに申し訳ないとすら思う。けれど、おばさんとのやりとりが、逆にミリアの意思を固くした。
「心配かけて、ごめんなさい。でも、おばさんに迷惑はかけないから」
自由にしてあげたいという善意擬きから来るものであったとしても、奴隷市場から獣人を買ってしまった時点で、ミリアの行動は正しいと言えない。ここで契約を破棄してウォルを自由にすることは簡単だけれど、また奴隷商に捕まってしまったら。こんなにボロボロなのに、一人で生きていけるのか。契約してしまったのならせめて、怪我が治るまでは面倒を見るべきだ。たとえウォルの方が契約を望んでいなかったとしても。
「ミリアちゃん……」
心配そうな声を出すけれど、おばさんはそれ以上何も言わなかった。まだ話があるから、と知り合いの家に引っ込んでいくおばさんを尻目に、ミリアは帰路を辿る。終始ミリアの隣に並ぶことはしなかったウォルの表情は、結局最後までわからなかった。
*
家に帰る前に、近くの川に寄ることにした。王都の方ではどうかわからないけれど、ミリアの住む村に入浴設備のある家はほとんどない。ミリアの家にも当然ないので、体を清めたいときは浴場に行くか、川で水浴びをするようにしている。浴場に連れて行くのは、さすがに周囲の目を気にして憚られてしまった。
「家からタオル取ってくるから、水浴びして待っててね」
返事を聞かないまま、家へと向かう。途中、近所のおじさんやおばさんに遭遇し、「縁談はどうだった?」「相手はいい人だったの?」と尋ねられたけれど、曖昧に笑って返した。縁談相手は別の人と駆け落ちして不在で、その代わりに獣人奴隷と契約しただなんて、通りすがりに交わす会話ではない。
半日ぶりの帰宅となった家から、一番綺麗なタオルを引っ掴んですぐに踵を返す。そこまで時間をかけたつもりはなかったのだけれど、着くとちょうど水浴びを終えたところだったらしい。ボロボロの上衣を手に持ち、ボサボサと伸びっぱなしの髪からはぽたぽたと雫が垂れている。見てはいけないと思い、木陰に身を隠し顔を背ける。が、一瞬だけ視界に入った上半身が傷だらけであることにはしっかり気がついてしまった。
「……ねえ、何コソコソしてんの。タオルくれない?」
「あっ、ご、ごめんなさい」
匂いでわかったのか、それとも気配がしたのだろうか。あっさりバレてしまったので、慌てて駆け寄りタオルを手渡す。相変わらず上衣を着ていないので、目のやり場に困ってしまう。透き通った川面を眺めていると、水滴を拭い切ったのか、「終わったけど」とぶっきらぼうに告げられた。
「あ、うん。こっち」
視線を戻すと上衣も着ていたので、胸を撫で下ろした。ミリアが歩くのに合わせて、ウォルが数歩後ろから付いてくる。正直言うと、今の間にどこかへ行ってしまったのではと思っていたので、大人しくミリアの帰りを待ってくれていたことが意外だった。ウォルを縛る魔法は余程強力らしい。
家に帰り着き、腰を落ち着けるのもそこそこにウォルの手当てをする。ミリアに医療の心得はないので、所詮は家庭での応急処置程度だけれど、ないよりはマシだろう。体中のあちこちに散らばる傷は、古いものから新しいものまで様々だ。見ているだけで痛ましく、思わず顔を顰めていると、ウォルが鼻で笑った。
「……なんでお前が痛そうな顔すんだよ」
「そう、だよね。ごめんなさい」
確かにその通りだ。ミリアが傷つけられたわけではないし、同情したところで傷が治るわけでもない。しゅんとして謝ると、その反応に面食らったらしい。ウォルはむっつりと黙り込む。何の言葉も交わさないまま、黙々と手当てを続けていると、「お前さ、どういうつもり?」と不意に刺々しく尋ねられた。
「え?」
「持参金だったんだって? 俺を買った金」
「あ……」
おばさんに話していた内容が聞こえていたらしい。背後にいたのだから当然だけれど、わざわざそのことを話題に出されるのが意外だった。ウォルが、嘲笑うかのように口端を持ち上げる。黄金色の瞳はミリアへの警戒心で満ちている。
「そんだけの金払って、何がしたいんだよ」
険しい口調と表情は、ミリアの行動を偽善だと責めているようだ。手当てをする手が止まりかけたけれど、つい先ほど意思は固めたばかり。骨ばった腕を握り、口を開いた。
「あなたを……ウォルを、自由にしたい」
「は? 会ったばっかの俺を?」
意味わかんない、と呆れたように息を吐くウォルに、「そうだよね」と苦笑する。
「私も、意味わかんないことしてると思う。でも、できることがあるかもしれないのに何もしなかったら、きっと後悔する」
「……」
「だから、せめて傷が治るまではここにいてほしい。治ったらすぐに契約破棄して、出ていってもらって構わないから」
「……変なやつ」
それだけ言うと、ふいっと顔を背ける。それきり黙り込んだままのウォルに、辿々しく手当てを施していく。正しいことはしていないけれど、きっと間違ってもいない。ミリアは、そう自分に言い聞かせた。
「えっと、家の中案内してもいい?」
手当てを終え、そう尋ねる。「そんなに部屋の数はないんだけど」と続けると無言で立ち上がった。どうやら、一時的に一緒に暮らすことには納得してくれたらしい。ほっとして、狭い家の中を歩き始める。
家の中を一通り案内し、晩御飯を用意して狭い食卓を囲む。両親が亡くなってからというもの、ミリアの食卓は基本的に一人だった。たまに近所のおばさんが一緒にどうかと声をかけてくれるけれど、頻繁にご相伴にあずかるわけにもいかない。誰かと一緒にご飯を食べるなんて久しぶりだ、と思わず浮き足立ってしまう。
「口に合う?」
「……別に、普通」
「そっか」
ウォルとの会話はそれきり途切れる。硬いパンに豆のスープ、という質素な食事は、確かに「普通」としか形容できないものだ。けれど、ミリアが一人で食べるときには味気ないそれが、どうしてかいつもよりずっとおいしいと思えた。