1
「──ねえ、大丈夫かいあんた?」
私は体をがくがくと揺らされている感覚と、何かうるさいなあという気持ちで薄目を開けた。
……ん? 空?
体を起こすと目の前には六十歳ぐらいの外国人のおばあちゃんの顔があり、周りを見ると、見覚えのない川べりだ。
あれ? 私は確か仕事の休みに朋子と駅ビルに買い物に……ええと、それで、何か大通りが騒がしいってなって二人で歩いていったら……そしたら刃物を持ったおじさんがいて……恐怖で固まってたらお腹を刺されて、痛みよりすごい熱さを感じて……え?
慌ててお腹を見るが、ケガをした様子はない。
一体どういうことだ? 朋子は?
キョロキョロ辺りを見回すがおばあちゃん以外の人影はない。
大体ここはどこなのだ?
「あの……ここは一体どこでしょうか?」
私がおばあちゃんに話し掛けて、あ、外国人に日本語が伝わるのかと慌てていたら、おばあちゃんは少し沈黙した後、
「……ああ、もしかして迷い人さんか」
と呟いた。
日本語が分かるのはありがたかったが迷子じゃない。今の場所が分からないだけだと反論しようと思ったら、
「あんたはその若さで死んじゃったんだねえ……可哀想に」
と気遣うような言葉を掛けられて絶句した。
私は一瞬思考停止をして、いや生きてるしと答えようとするも、分かってるから、といった感じでポンポンと肩を叩かれる。
「まあとりあえず説明してあげるから、ババの家においで。別に悪さしやしないから」
手を引っ張られて立ち上がると、私はそのままおばあちゃんの家に連れていかれた。私も理解が追いつかないし、川辺でウロウロしていたら野生動物に襲われるかも知れない。男の人なら何をされるか分からないけど、相手はおばあちゃんだ。変に怖がってもいられない。
まずは状況を把握しなくちゃ。
頭がハッキリすると人間冷静になるものである。
私はおばあちゃんの後について歩き出した。
「……はあ」
「だからあんたは迷い人じゃないかと思うんだよ」
おばあちゃんはサマンサと言うそうで、こぢんまりした居心地のよさそうな家で一人暮らしをしていた。薬草などで薬を作って生活しているそうだ。周囲に家がないのでかなりの田舎なのだろうか。
お腹空いてるだろう? と言われてさっきからきゅるる、とお腹が鳴っていたのがバレていたのかと恥ずかしくなったが、サマンサは笑顔で少し待ってなさい、と温めた野菜スープとスライスしたバゲットをテーブルに運んできてくれた。
ここで格好をつけている場合ではないのでありがたく頂戴する。
野菜スープは塩と野菜のダシが利いて、あっさりとして美味しかった。
そして、その間にポツポツと話を聞かせてくれたのだ。
●ここはハルダーノという王国である。
●何年かに一度、王国の民とは思えない顔立ちの男女が突然現れる。
●話を聞いた人間の話を総合すると、どうやらその人たちは直前に誰かに首を絞められたとか、崖から突き落とされたとか、刃物で刺されるなど危機的な状況に陥っていたらしく、恐らく死んだのではと思われる。
●状況は不明だが、それにより自分の生きていた国から飛ばされた、もしくは神の慈悲で他の国で生き返ったのではないかと思われること。
●そういう人たちを迷い人とこの国では呼んでいる。元の世界に戻った人はおらず、そのままこちらで人生を送っている。こちらの国ではない知識を持っている人間が多く、厚遇されることが多い。
●王宮に行けば手厚く保護されるし生活の保障はされる。
──という話だそうだ。にわかには信じがたいが、名前も聞いたことがない王国にいる自分、そして同じ言語を話しているように思ったサマンサの口の動きと、自分に伝わる言葉が明らかに違うこと(映画の吹き替えみたいな感じだ)、さらには実際に危機的な状況に陥っていた自分を考えると、嘘っぱちだとは切り捨てられない。
「そうすると、私は死んだんですね多分……」
「……まあ私も絶対にそうだとは言えないよ。そりゃ体験してないからさ。だけど、本人なら感覚的に分かるんじゃないかい? 自分が今いる場所、現状とか冷静に判断してごらん」
「そうですね……」
そっか……まだ二十歳で死んでしまったのか。朋子はケガしてないといいな。あ、通販で頼んだばかりのハンドマッサージャー、金だけ払って一回も使えなかったじゃないか。一人娘なのに両親を泣かせてしまうなあ。もっと働いて家にお金を入れて、早く父が友人に背負わされた借金を減らしたかったのに。
色んな感情が渦巻いて、避けるようにしていた戻れないという現実を受け入れるしかないと考えたら、ぽろぽろと涙がこぼれた。
サマンサは立ち上がると、私の背中を優しくさすってくれた。
「──人間はさ、なるようにしかならないんだよ。ナナコも起きた不運を嘆いても元に戻る訳じゃない。とりあえずしばらくここにいればいいさ。まあ食事とベッドぐらいしか提供できないけど、この国の話もある程度知っておかないと今後困るだろう?」
「そうですよね。あ、でも王宮に行けば助けてくれるんですよね?」
いつまでもサマンサに迷惑をかける訳にはいかない。
私がそう尋ねると、彼女は難しそうな顔をした。
「いや、男だったらね、すぐにでも王宮へ行けと言うところなんだけど、ナナコの場合は若い女だからねえ」
「女だと、何かまずいんでしょうか?」
サマンサは少し考え込んでから、まあ隠すつもりもなかったんだけどね、と言いこの国の特殊な事情を教えてくれた。
この国では十年ぐらい前に原因不明の流行り病が起きて、体力のない年寄りや子供、そしてかなりの女性が命を落としたそうだ。
そのため現在この国の男女比は八:二だと言う。それも老齢の女性から子供まで含めてだそうで、結婚できて子供が産める世代になると一割程度ではないかとのこと。
「──え? そうなると私モテモテですか?」
少しでも気分を上げたくて冗談ぽく言うと、これこれと叱られた。
「ナナコみたいな十三、四歳程度の小娘でも数年経てばモテるだろうさ。ただし王族や貴族から金積まれてゴリ押しされる可能性は高いよ」
「いやあの、私二十歳ですけど」
「……なんだって?」
おい二度見で胸元を見るの止めろババア。Bカップはある。殴るぞ。
……まあ日本人は昔から外国人には若く見られるらしいし、子供に見えても仕方がないのかも知れない。
だが強く訴えたい。すべての男性が筋肉ムキムキなマッチョにならないように、女性だからってお尻や胸が常に豊かに育つものではないのだ。個性と言ってほしい。
「ナナコの発育が悪いのはともかく、今は子供が産める世代の女性はどんな男も選び放題だと言ってもいいね。不細工だろうが美人だろうが、太ってようがガリガリだろうが、それだけは変わらない」
「……なるほど。女性にとっては天国なんですねえ」
「ま、女性の立場が上がったのはいいことさ。年寄りの私には何にも変化はないけどね。ただ、それも良し悪しって言うか……」
「え?」
「いや、それはこれからおいおい教えるよ。今は落ち着くのに時間が必要だろうから、少しゆっくり休んでな。使ってないゲストルームがあるからそこを使えばいい」
案内された部屋は小さいものの掃除が行き届いており、ベッドと本棚、小さなテーブルと椅子、クローゼットのみのシンプルなものだった。
でも見ず知らずの人間にここまでしてくれるとは聖人ではなかろうか。
いや、私は受けた恩は返す女だ。
「働くようになったらお世話になった分は必ずお返しします」
深く頭を下げると、サマンサは笑った。
「律儀だねえ。まあ嫌いじゃないよそういう子。でも働けるかねえ……」
そう呟くと、仕事に戻ると出ていった。
私はベッドに腰掛けると、ふう、とため息を吐いた。
さて、これから私はこの国で生きていくしかないらしい。さっき感情のままに泣いてしまったので大分心は平静になった。
サマンサは私を子供のように感じていて、とても仕事ができるとは思えなかったのだろうが、高校を出てから二年、雑貨ショップの店員として無遅刻無欠勤で働いてきたし、家でも共働きの両親の手助けをするため炊事洗濯は受け持っていた。正直料理は好きだし、両親に褒められていたほどだから下手ではないと思う。この国の料理のやり方も覚えていけばなんとかなるだろう。
ただ、女であるだけでモテると言われても、私は男性が苦手なのだ。