第一章 リヒャルト・フィシェルの事情
「さて、こちらの会社。営業実態のない架空会社《ペーパーカンパニー》ですね」
俯き震える財務の役人を、美しくも温度を感じさせない若草色の目で見下ろしながら、これまたまったく感情を表さない声で、ミルシュカ・ヴィクトラ子爵は断罪する。
ミルシュカは表情が乏しく、冷たい雰囲気の迫力ある美女だ。
彼女の仕事は国家監査官。いわば王の猟犬である。
権力と金を持つと、人はその多くが堕落する。
汚職癒着脱税着服。貴族や役人たちが犯す国家に対する金銭的な犯罪行為は、枚挙にいとまがない。
そんな彼らを監査、監察し、その罪を摘発するのがミルシュカの仕事だ。
「そしてあなたは、この架空会社を用いて空発注を繰り返し、国から金を巻き上げておられた。証拠を見せてあげてください。リヒャルト・フィシェル監査官」
「はいはーい。こちらが証拠書類となりますよっと。ここにある代表者の署名《サイン》が、あんたの筆跡と完璧に一致しているのは、すでに確認済みだ」
リヒャルトが証拠書類として、架空会社の納品書と提出された領収書を目の前に提示すれば、役人は滝のような汗をかきながら、ぶるぶると震えている。
このまま罪に問われ、罷免程度で済むならばいい。
だがこれが国家に対する背任とされれば実刑、下手をすれば処刑すらもあり得る。
「知っておられました? あなたがこうしてせっせと私腹を肥やしていたそのお金、実は国民の血税なんですよ」
ミルシュカは冷たい目で役人を見やる。
すると彼はその場にくずおれて、床にその額を擦りつけた。
「すまなかった! どうか見逃してくれ……! 金ならいくらでもやる……!」
監査官といえど、所詮は薄給の役人だ。
金を握らせれば黙らせることも可能だろうと、彼は考えたのだろう。
(だが運が悪かったな)
リヒャルトは鼻で笑った。他の監査官はともかく、こいつに限ってそれはない。
我が国家監査室が誇る冷血のミルシュカに目をつけられたら、もうどうしようもないのだ。
「謝って済むなら、監査官なんて必要ないんです。ちなみにあなたの今の言葉で、収賄罪も成立しますね。私とリヒャルト・フィシェル監査官が証人になりますので」
「そ、そんな……! 殺生な……!」
堪えきれず、リヒャルトは噴き出した。
ミルシュカはとにかく真面目で融通が利かないのだ。
金ごときに目が眩むような、俗な人間ではない。
ミルシュカがチラリと咎めるように、横目でリヒャルトを見る。
リヒャルトは怖い怖いと慌てて姿勢を正し、表情を引き締めた。
「あなたの罪の重さは、然るべき機関が決めることになります。私たちはあくまでも、監査官ですので」
そして監査官には監査対象を拘束する権利もない。それは公安の仕事である。
ミルシュカはパチリと指を鳴らす。するとすぐに公安の制服を着た男たちが、一気に部屋に雪崩れ込んできた。
「はぁい。待ってたわミルシュカちゃん! 今日も美人ねえ! あとは私たちが引き継ぐわよぉ」
そのうちの一人、素晴らしい筋肉を誇る赤毛の男性保安官が体をくねらせながら、ミルシュカに抱きつく。
国家監査室と公安部隊は仕事上繋がりが深く、この赤毛の保安官、マヌエル・バルツァーとも付き合いが長い。
マヌエルは自分のことをミルシュカの女友達だと宣い、やたらと彼女に馴れ馴れしい。
体は筋肉ムキムキで、これぞ闘う男といった姿をしておきながら、心は女だと言い張っているのだ。
それが事実かは、リヒャルトには判断がつかない。
よってリヒャルトからすると、彼らの関係がまったくもって面白くない。
なんのアピールかは知らないが、やたらと胸筋をピクつかせてくるところも、許し難い。
もちろん羨ましいなどとは思っていない。――少ししか。
「職務中ですよ。マヌエル・バルツァー上級保安官。正しい行動と言動をお願いいたします」
マヌエルの豊かな胸筋に埋もれながら、ミルシュカが冷静に指摘する。
「んもう! ミルシュカちゃんったら相変わらずお固いんだからぁ。……おら! お前ら! とっととそいつをふん縛れ!」
「はっ!」
マヌエルの低く野太い声による号令で、公安官たちが速やかに役人を拘束する。
もう、どうにもならないと諦めたのだろう。役人は抵抗することなく、大人しく連行されていった。
「証拠書類に関しましては後ほど、上官より承認を受けた上で、公安部に引き渡します」
「わかったわ。それじゃまた後でね!」
雄々しい図体で可愛らしく手を振りながら、マヌエルは嵐のように去っていった。
相変わらず色々と濃い男である。
「ではフィシェル監査官、あなたは他に証拠になりそうなものがないか、もう一度この部屋を確認してください。その間に私は報告書を書きます」
「いや、今回は俺が書く。この前もミルシュカが書いてただろ?」
「結構です。私が書いた方が早いですし。それに正直言って、あなたの報告書は色々と酷いので」
「…………」
厳しい言葉に、ぐうの音も出ない。
確かにリヒャルトは悪筆だ。さらには文章を書くこともあまり得意ではない。
結局何が言いたいの? と上官に首を傾げられてしまう謎な報告書ができ上がることも多い。
一方達筆なミルシュカが作成した報告書は読みやすく、さらに内容も的確かつ簡潔で、わかりやすい。
よきお手本として、新人監査官の研修に使用されているほどだ。
「お互い得意なことが違いますので。無理をするより補い合った方が、効率がいいかと」
「…………そうかよ。悪かったな」
ミルシュカの言うことはいつも、どうしようもなく正しい。
ただ時々、突き放されているような気になってしまうだけで。
リヒャルトが拗ねてしまったことに、気付いたのだろう。
ミルシュカは困ったように少しだけ眉尻を下げ、随分と高い位置にあるリヒャルトの頭に手を伸ばし、その金色の髪をワシワシと撫でた。
まるで犬のような扱いだと思いつつ、髪の合間を滑る彼女の指が心地よくて、リヒャルトはすぐに機嫌を直し、うっとりと目を細める。
「言葉足らずでごめんなさい。よかれと思って言ってくれたのだということは、ちゃんとわかっています。けれど私は報告書を書くことが苦にならないので、大丈夫なんです。その代わり私が苦手な人との折衝や情報収集は、あなたの方が圧倒的に得意ですし、頼りっぱなしでしょう?」
「……まあな。さすがミルシュカ、よくわかってる」
基本的にリヒャルトの辞書に、謙遜の文字はない。
「これでもいつも感謝しているんです。ありがとうリヒャルト」
さらに滅多に褒めてくれないミルシュカに褒められると、リヒャルトはこれ以上ないほどに有頂天になってしまう。
そんな単純な彼を見上げたミルシュカが、わずかながら口角をふんわりと上げる。
かろうじて笑顔と呼べそうなその表情に、リヒャルトの心臓が跳ね上がった。
普段表情に乏しい彼女が、こうしてふとした瞬間に見せてくれる笑顔に、リヒャルトはどうしようもなく舞い上がってしまうのだ。
(あーー! やっぱり好きだぁぁぁーっ!!)
本人には到底言えない素直な想いを、リヒャルトは心の中で叫んだ。