プロローグ 深夜のトマトリゾット
会社のウェブ社内報に訃報が載った。
亡くなったのは同じ会社ではあるけれど、私とはまったく接点のない部署の男性。まだ二十代だった。
──リモート会議に出ないのを不審に思った上司が電話して、それでも連絡が取れないから家を訪ねて発覚したんだって。
──栄養失調で布団から出られず、そのまま熱中症だったらしい。
──一人暮らしだから発見が遅れたんだ。リモートでなかったら、誰かが体調不良に気がついたかもしれない。
──せめて倒れたのが出社する日だったら……。
クゥという情けない音がして、私はキーボードを打つ手を止める。パソコンの一番下に小さく表示される時計は、午前二時を過ぎたところ。草木も眠る丑三つ時だ。
「……もうこんな時間か」
椅子の背もたれに寄りかかるようにしてぐっと背を伸ばすと、背中からバキバキという不吉な音が聞こえた。
(お腹、空いたな。なにか食べるものあったっけ)
わずか十歩足らずで冷蔵庫に到着してしまう我が家は、間取りワンルームの小さな賃貸マンションである。
駅から徒歩十五分、六階建ての鉄筋コンクリート造りのマンションは、オートロックに宅配ボックス、二十四時間有人監視防犯システムという、セキュリティのよさが売りだった。
けれど、私がこのマンションを借りるにあたって決め手になったのは、使いやすそうなキッチンである。
賃貸物件を探していて気がついたのだけれど、単身者向けの部屋だと、簡素なミニキッチンがほとんどだ。コンロは一つで、しかもぐるぐると渦を巻く電熱式か古いIH。シンクも作業台もおざなり程度で、冷蔵庫を置くスペースも寸法的に小型のツードアタイプがギリギリ。下手をしたら、四角いワンドア冷蔵庫しか置けない部屋だってあった。
そんな中で、このマンションのキッチンは異彩を放っていた。
二口コンロに広い作業スペース、使いやすそうなシンクと、たっぷりの収納スペース。そしてなにより気に入ったのが、憧れのカウンターキッチンだった。
実家にある窓に向かって立つ昔ながらの「昭和の台所」しか知らなかった私は、思った。
こんな素敵なカウンターキッチンなら、さぞかし料理がしやすいに違いない、と。
朝食はフルーツたっぷりのパンケーキかホットサンドイッチを作ろう。もしくは近所の美味しいパン屋さんを開拓して、散歩がてらに焼きたてのパンを買いに行くのもいいな。
お昼は当然、自分で作った健康的なお弁当だ。マグに入れたスープも忘れない。
夜はお肉か魚を主菜に、玄米ご飯と野菜をいっぱい使ったお味噌汁だ。もちろん料理に合うお酒は欠かせない。ビールにワイン、それから日本酒に、各種リキュール類。季節の果物を漬けたサングリアも作ってみたいな……。
このマンションを探していた当時、私は大学を出たばかり。実家ではよく料理を褒められていたおかげで、料理の腕には妙な自信があったのだ。
だから憧れのキッチンを前に、夢はどこまでも膨らんでいた。
だけど……。
(現実は厳しい)
私は冷蔵庫の扉を開けて、大きなため息をついた。
自炊を前提で購入した冷蔵庫は、上段が冷蔵室と野菜室で下段が冷凍室になっている、大容量のファミリー向けだ。
なのに、入っているのは六缶パックのビールと、袋に一本だけ残ったソーセージ、あとは粉チーズと使いかけの調味料だ。ちなみに野菜室の引き出しには、しなびた人参と半分になったタマネギが転がっている。
「なにもないっていうか、これはないわー……」
がっくり肩を落として、今度は冷凍庫の引き出しを開ける。
たっぷりストックが売りの冷凍室にあるのは、ラップに包まれたちんまりした冷凍ご飯と、買ってきたまま放り込んだカチコチに凍ったバゲット。あとは買い物の際にもらった保冷剤が、底に大量に散らばっている。
(このご飯はたしか一昨日の夜、一口だけ余ったから冷凍しておいたやつだ。でも、これっぽっちじゃお腹の足しにならないし、バゲットを切るには全部解凍しなきゃだし。……はぁ)
ご飯を冷凍した時、どうしてもっと残しておかなかったんだろう、一昨日の私。
バゲットを冷凍した時、どうして面倒がらずにちゃんと切ってから冷凍しなかったんだろう、その時の私……!
冷蔵庫を諦めた私は、最後の望みをかけて乾物がストックしてあるシンクの下の扉を開ける。鍋やボウルといった調理器具の横にあるのは、空っぽになった米びつと、油や調味料のストック。頼りの非常食が置いてあるはずのプラスチックケースは、レトルトご飯の外袋だけが残っているだけだった。
パタンと扉を閉め、私は再び大きくため息をついた。
(おかしい。こんなはずじゃなかった)
きちんと食事を作っていたのは、一人暮らしを始めて半年くらいまでだったろうか。
まず忙しい。スーパーが開いている時間に帰れる日なんて、月に一度あればいいほうだ。ならば週末にと思っても、溜まった洗濯や家事をこなすので精いっぱい。せめて食事くらいは簡単に済ませてゆっくり休みたいと考えるまで、そう時間はかからなかった。
そんな苦い経験を経た私は、コロナ禍でリモートワークが始まった時、今度こそはきちんと自炊しようと思った。
目指せ、スローでサスティナブルな暮らし! だったはずなのに──
『やればできるは、やらない人の言い訳よ』
ふと実家で母親によく言われていたセリフが頭を過る。私はプルプルと頭を振った。
「あーあ、こんなことなら昼間のうちに買い物に行っておけばよかった。いくら近所のコンビニでも、この時間に外に出るのはちょっと怖いし」
在宅で仕事をしていると、どんどん時間の感覚がずれていく。
朝起きる時間は以前と変わらないものの、食事とトイレ以外は延々と仕事をしてしまう。その食事の時間だって、忘れないようにタイマーをセットしているくらいだ。
しかもオンライン会議のない日は部屋着のままだし、もちろんすっぴん。なんならオンライン会議がある日だって、上はきちんとしていても、下はルームウェアの短パンのままだったりするのだ。
「うう、なにもないってわかるとますますお腹が空いてきた。せめてなにか温かい飲み物で、お腹を紛らわそうかな。ええと、お湯を沸かして……あ」
紅茶でも飲もうかと棚に手を伸ばした私は、インスタントコーヒーの瓶の後ろに隠れていた小さな缶に気がついた。
「このトマトジュース、いつ買ったんだっけ」
存在すら忘れていたトマトジュースは、せめて野菜をと思ってずいぶん前に買っておいたものだった気がする。なんとはなしに缶を持ち上げた私は、ふといいことを思いついてシンクの下から小鍋を取り出した。
用意するのはトマトジュースと、冷蔵庫に残っていたソーセージ、そして冷凍ご飯だ。
まずは冷凍ご飯を電子レンジに入れる。解凍している間に小鍋に火を点け、オリーブオイルを一たらし。そこにソーセージを入れる。
「ニンニク入りのハーブソルトを振って……うーん、いい匂い。やっぱりオリーブオイルとニンニクって鉄板だよね」
私がトマト好きだからかもしれないけど、意外とニンニクの使用頻度は高い。だから以前は、ちゃんと生のニンニクを常備していた。
だけど、きちんとラップで包んでいたはずなのに、いつの間にかカラカラに乾いた自家製乾燥ニンニクを量産するのに忍びなくて、ガーリック入りのハーブソルトで代用するようになったのはいつからだろう。
ソーセージがじゅわじゅわ音を立て始めたら、トマトジュースと解凍したご飯を投入する。この時に油が跳ねやすいので要注意だ。
「そうだ、せっかくだからあれも入れちゃおう」
ふつふつと沸騰して水気が減った鍋に、冷蔵庫から取り出した粉チーズとフライドオニオンをたっぷり振りかける。ふわりとチーズのいい香りがしたら、火を止めて完成だ。
「よし、いただきます!」
お皿にリゾットをよそい、ふうふうして、まずはお米からパクリ。
真っ先に存在を主張するのはトマトだ。粉チーズの塩気が加わったことにより、頬がキュッとなる酸味が優しい味になっている。そこにご飯の甘みが加わると……。
「んんっ! 美味しい! これは幸せの味……!」
次はお楽しみのソーセージだ。おそるおそる端を齧れば、プチンと皮が弾ける音とともに、中から熱々の肉汁が溢れ出す。
「あちっ、あちちっ」
はふはふとソーセージを食べ、お米を一口。それからまたソーセージを齧り、お米を口に入れる。かすかに感じるガーリックと香ばしいフライドオニオンがいいアクセントになっていて、いくらでも食べられてしまいそうなのが怖い。
夢中で食べているうちに、気がつくとお皿の中は空っぽになっていた。
「はあ……美味しかった」
空きっ腹の午前二時。
これがちょっと前だったら、カップラーメンで簡単に済ませていただろう。もしくは菓子パンや、スナック菓子だったかもしれない。
だけど最近は、ほんの少しだけ健康を意識した食事を心がけるようになった。