1 帰還
いつもと変わらない穏やかな午後のティータイム。周囲にいる仲のいい令嬢たちは楽しそうにおしゃべりに興じている。
ベルトキア王国の伯爵令嬢、ダニエラ・コルテーゼはにこやかな笑みを浮かべながらこっそりとため息をついた。この三年で表情を繕うのには慣れたはずなのに、今日はそれが難しかった。
仲間外れにされているわけではない。ただ話題がダニエラについていけないものなのだ。しかしそれを顔に出すわけにはいかない。楽しんでいる友人を悲しませることになるし、なによりダニエラの令嬢としての矜持がそれを許さなかった。
「本当に、彼ったら私のことをひとときも離したくないだなんて言うんですのよ」
「まあ素敵! そうそう、私の婚約者なんてね……」
「あら、うふふ!」
ダニエラは紅茶をいただく振りをして唇を噛む。
(わたしだって……わたしだって……っ)
つい対抗心を燃やしたくなってしまったダニエラだったが、いささか興奮気味だと気付いて深呼吸をする。己を律することができずしてなにが貴族か。
しかしため息は細心の注意を払ったが、深呼吸は隣の席の令嬢に気付かれてしまった。彼女は『あ……』と口許を押さえ気まずそうな顔をしたため、ダニエラは慌てて取り繕う。
「仲がよろしくて羨ましいわ」
にっこりと会心の笑みで『気にしていないわ』と意思表示をしたつもりだったが、令嬢が言葉に詰まったことから失敗したと悟る。
今の言葉を深読みすれば『わたしの前でそんな話をするなんて』という真逆の意味になりかねない。こうなったら力の限り誤魔化すしかない。ダニエラは笑顔から滑らかに悲しげな表情に移行すると、眉根を寄せて頬に手を当てる。
「皆様の幸せそうなお話を聞いていたら、わたくしもガウディーノ様に早くお逢いしたくなりましたわ」
社交界でもダニエラの婚約者であるガウディーノが長く不在にしていることは周知されている。令嬢たちは気遣いに欠けていたことを恥じ、顔を俯かせる。しかし物怖じしない令嬢の一人が声をあげた。
「そうですわね……この国一番の美男子であるガウディーノ様がいらっしゃらないと社交界も火が消えたようですもの。婚約者であるダニエラ様はなおさらですわよね……でも、もうそろそろお帰りの時期では?」
令嬢が声を弾ませて話の矛先をずらす。ダニエラはそれに全力で乗っかることにした。
「ええ。任期は三年とうかがっておりますし、まもなくかと……」
ダニエラは頬を染める。
ダニエラの婚約者はガウディーノ・フェデリという貴公子だ。フェデリ家はベルトキア王国の「もうひとつの王家」と呼ばれるほど重要な公爵家である。ガウディーノは次期フェデリ公爵となることが決まっていた。
フェデリ公爵家は元々数代前の王弟が爵位を得て興したという経緯を持ち、その後も公爵家令嬢が王妃に迎えられたり、王姉が嫁いできたりしている。そのため王家との繋がりも深く濃く、ガウディーノは王家に時折現れるとされている稀有なアメジストの瞳を有していた。
そして彼はベルトキア王国王立騎士団の団長でもある。今から五年前、若干二十三歳での騎士団長就任は創立以来最年少だったが、実力は誰もが認めるうえ、上からも下からも信頼が厚いという稀有な存在であったため反対意見はほぼなかった。
容姿端麗、文武両道、勇猛果敢……多才なガウディーノを飾る言葉はいくらあっても足りない。街中、いや、国中の女性がガウディーノに恋をしていると言っても過言ではなかった。もちろんダニエラもガウディーノに淡い恋心を抱く令嬢の一人だった。
そんなガウディーノがダニエラの婚約者になったのは四年前だ。王家と近すぎるフェデリ家を高位貴族が牽制する動きがある中で、ガウディーノの結婚問題は国を揺るがすほどの騒ぎになりかけた。
ガウディーノを巡っていがみ合っていた王女と別の公爵家令嬢が、国賓も出席する夜会でつかみ合いの喧嘩をしたのだ。
騒ぎは治まったが、なんとかガウディーノを得ようとする勢力があまりに多いことを憂慮した国王は、今回はフェデリ家との姻戚関係を結ばないことを宣言した。
そしてこれまで縁がない、国政から遠い家との婚姻を結んではどうか、とフェデリ家とガウディーノに勧めた。
傍系にもかかわらず王家特有のアメジストの瞳を持ち、どの貴公子より有能なガウディーノのことは王家も取り込みたいと熱望していたが、火中の栗を拾い国内に騒動の種を蒔くことを避けた形だ。
王家が引くのならば、と貴族や大商家は表面上鎮静化したが、水面下ではガウディーノ獲得に拍車がかかることになり、結局王家の目論見とは逆に国中を巻き込む騒動に発展してしまった。
この騒ぎを治めるには早々にガウディーノが婚約者を決める必要があった。誰が選んでも選ばれても角が立つならば、いっそガウディーノ本人が決めればいい、ということになったのだ。
皆が固唾を呑んで注視する中、選ばれたのが伯爵令嬢ダニエラ・コルテーゼだった。
コルテーゼ伯爵家は権力を手にしたいというよりはバランス感覚を重視するダニエラの父の元、『ご縁があればいいなあ』的な立ち位置で、積極的にガウディーノに働きかけることはしていなかった。
しかしガウディーノはなぜか縁の薄いダニエラとの婚約をコルテーゼ家に申し込んできた。ダニエラを含め誰も予想しなかった縁談に静かなコルテーゼ伯爵家は混乱した。
それだけでも信じられないのに、ダニエラはそこにガウディーノの強い希望があったと聞いていて、絶対に誰か別の令嬢と勘違いされているのだと信じて疑わなかった。
(万が一本当だったとしても、わたしがあの麗しのガウディーノ様の婚約者になんて恐れ多いわ……)
容姿が優れていることはもちろん、頭脳明晰で性格もよく快活。すらりとした体格ながら剣の腕も立つ信頼厚い若き騎士団長、そして次期公爵となれば年頃の令嬢たちが放っておかない。
彼女たちからの熱い視線を一身に集めていたガウディーノに対して、可もなく不可もなくごく平凡な伯爵令嬢の自分が釣り合うとは到底思えず、ダニエラは格上の公爵家からの打診を失礼にも数日保留していた。
だがとある貴族主催の夜会に突然現れたガウディーノは、ダニエラを見つけると早足で歩み寄り、手を握り求婚してきたのだ。
「ようやく会えた。ダニエラ・コルテーゼ嬢、どうか私の求婚を受け入れてほしい」
片膝をついてダニエラの手を取り、美しいアメジストの瞳を迷いなく向けるガウディーノに、ダニエラは言葉をなくして立ち尽くした。
からかわれていると思い、しどろもどろになりながらも理性的であろうとしたダニエラの精神を完全破壊したのはガウディーノだった。
「ずっと前から君に恋していた。どうか私の妻になってくれ」
「……っ」
周囲の令嬢たちが阿鼻叫喚する中、ガウディーノからアメジストの瞳で見上げられて断れる女性がいたら挙手をしてほしい。もちろんダニエラが手を挙げることはかなわず、目の前に跪く『憧れのガウディーノ』に恋に落ちた。
コルテーゼ伯爵家としても公爵家と近しい関係になることは喜ばしく、ダニエラもガウディーノのことが好きならば反対する理由はない、と両家の婚約はすぐに整った。
あれよあれよという間に名実ともにガウディーノの婚約者となったダニエラは、夢の中にいるような心地だった。
彼は心配りができる男でエスコートが上手だった。彼と出掛けるデートも舞踏会も素晴らしく、彼はいつもダニエラをお姫様にしてくれた。二人の仲は急速に近付き、誰もが羨む婚約者同士だった。
ベルトキア王国での婚約期間はおよそ一年間。その間に結婚の準備を徐々に整えていくものなのだが、式の日を間近に控えた段になって問題が起こった。
国境近くの砦の責任者である辺境伯が病に倒れたのだ。折しも国境近くに住み着いた蛮族が非道な行いを繰り返して、近隣の民を脅かしていると報告がなされたばかりの緊迫した状況。後継となる人材は未だ年若く、この重要な局面を乗り越えることは到底無理だと思われた。
王家はこの危機を回避するべく、王立騎士団の団長であるガウディーノを砦の責任者として派遣することを決めた。国土を争いから守るために、なんとしても蛮族の侵出を国境で食い止めなければならなかったのだ。
ダニエラは嘆き悲しんだ。
恋焦がれるガウディーノと結婚する直前で、彼が危険な前線に責任者として任じられるとは。なにより彼が無事でいられるのか、それが心配だった。
「泣かないでくれダニエラ。わたしは必ず君の元へ戻ってくる。待っていてくれるね?」
大好きなガウディーノにそう請われては頷かないわけにはいかない。ダニエラが涙を堪えて頷くと、ガウディーノは額に口付けをくれた。瞼を閉じてそれを受けると、彼の唇は瞼や鼻先、頬に降りてきてダニエラをときめかせる。
ガウディーノはこうしてダニエラに優しくキスをするのが好きなのだ。頬の次は決まって唇にキスが贈られる。ダニエラはいつものような、触れるだけの優しいキスを待っていると、腰を強く引き寄せられ二人の身体が密着した。
(え?)
どうしたのかとダニエラが瞼を開けると、目の前には怖いほど真剣な瞳のガウディーノがいた。身体の奥のほうがぞくり、と戦慄いたのがわかった。恐怖にも似たその感覚に戸惑っているダニエラの唇を、ガウディーノはいささか乱暴に塞いだ。
「……っ、んんっ!」
目を白黒させるダニエラの唇を割って、舌が侵入してきた。閨ではそのような行為をすることは知っていたが、まさかこんなところでされるとは。
どうしていいか戸惑っていると、ガウディーノの舌がダニエラの口内をまさぐるように動き、奥で縮こまってる舌に触れた。
「……っ」
瞬間、身体ごと震えたのが伝わったのか、ガウディーノが口角を上げたのがわかった。なにしろ口付けをしているのだから、ほんの少しの変化も伝わってしまうのだ。そうしてガウディーノは初心なダニエラの舌を思うさま味わい、堪能する。