第一話 夢見る乙女の誘惑
夜空の月が中天に差しかかる頃。リーメルト伯爵邸では、ほとんどすべての窓から明かりが消え、しんと静まり返っていた。
だが、一カ所だけ――カーテンの隙間からほんのりと明かりの見える部屋がある。その部屋の主であるエレイン・フォン・リーメルトは、こっそりと枕元のランプだけを灯し、読書に勤しんでいた。
寝台の上に腰掛けた彼女は、波打つ赤い髪をそわそわと指先で弄りながら、ページの上の文字を舐めるように視線で追っていく。
その緑の瞳はまるで夢を見ているかのように煌めき、頬は薔薇色に染まっていた。明らかに、かなりの興奮状態にあることがうかがえる様子だ。
それもそのはずで、エレインが今読んでいるその本が、ちょうど最初の山場に差しかかったところなのである。
本の中では、ヒーローがヒロインを抱き寄せ、見つめ合っていた。まるで周囲の様子が目に浮かぶような文章に、どきどきするようなこの展開。
二人が吸い寄せられるように口付けを交わしたその瞬間、エレインの唇からは小さな吐息が漏れた。
ヒーローもヒロインも、この日が初対面のはずだが、恋に落ちるのは一瞬。運命の前では、些細なことは気にならないのだ。
「はあ……素敵……」
ページを開いたまま、本をぎゅっと抱きしめたエレインは、吐息混じりにうっとりと呟くと、目を閉じてその場面を想像した。
そうして思い描いた光景に、きゅんきゅんと胸が疼いてときめきが止まらない。それはまるで暴走する馬車のように、どんどん加速していく。
ああ、と小さなため息をこぼすと、エレインは緩く頭を振った。その動きに合わせ、背中の中程まである髪がふんわりと揺れる。
だが、これはまだほんの序章にすぎない。エレインはゆっくりと目を開くと、再び本に視線を落とす。
この先への期待で喉が渇いて仕方がない。ごくりとつばを飲み込むと、エレインは逸る気持ちを抑えて本のページをめくった。
場面は城の庭園から室内へと変わり、二人は月の光を浴びながら再び抱きしめ合っている。そして触れるだけだった口付けは徐々に深まりを見せ、お互いの鼓動が重なり合っていくのだ。
やがて、ヒーローはゆっくりと寝台にヒロインを横たえ、二人はめくるめく夜を過ごす――。
「はわぁ……! これが、大人の恋……ってものなのね……」
エレインは、真っ赤に染まった頬を両手で押さえ、恥ずかしげに身悶えした。十八歳になったばかりの少女には、少しばかり刺激の強い内容だ。
そう、内容から察せられるように、これはいわゆるロマンス小説と呼ばれる分野の本である。平民の若い娘を皮切りに、今では貴族の令嬢たちの間でも、ひっそりと流行しているものだ。エレインもご多分に漏れず、その一員というわけである。
だが、両親や教育係がこの現場を見たら、即刻本を取り上げられ、エレインには厳しい叱責が待っているだろう。貴族令嬢にふさわしい本とは言えない、と。
だからこそ、エレインはこっそりと、こんな深夜に読書に励んでいたのである。
エレインがこのようなロマンス小説を読むようになったきっかけは、彼女の年の離れた姉にあった。すでに他家へと嫁いだ二人だが、その際にひっそりと蒐集したロマンス小説を実家であるリーメルト伯爵邸へと置いていったのだ。
エレインが偶然それを発見し、読んでみたところ――すっかり虜になってしまったというわけだ。
ひとしきり悶えたエレインは、続きを読むべく起き上がり、再びページをめくっていった。
実は王子であるヒーローと、その政敵の娘であるヒロイン。二人はあまたの苦難を乗り越え、やがて結ばれる。じりじりと一進一退する二人の関係がもどかしくも切ない。すっかりその世界に没頭したエレインは、とあるシーンでは涙ぐみ、とあるシーンでは手に汗握り――といった調子で、どんどんのめり込んでいく。
やがてすべてを読み終える頃には、窓の外はうっすらと明るくなりはじめていた。
「あぁ……またやっちゃった……」
読み終えた満足感と、それから徹夜明けの疲労感。読み終えた興奮が静まってくると、疲労感の方が大きくなってくる。
だが、後悔はしていない。
「フランチスカ先生……今回も最高でした……」
ナタリー・フランチスカという名の作家が、今のエレインが一推しする作家だ。その作家が久しぶりに出した新作ということもあり、早々に手に入れたエレインはこうして寝る間も惜しんで読書に励んでいたというわけである。
この分野で、相当数の小説を発表している作家だけに、手に入れるのは大変だったが――。
(頑張ってよかった……!)
ぎゅっと本を一度抱きしめると、エレインはそれを枕元の扉付きの棚にしまい込み、ほっとため息をついた。ここには誰も触れないように言ってあるから、中を見られる心配はほとんどない。
「はあ……さいこう……」
うっとりとしながら余韻に浸っていると、急激に睡魔が襲ってくる。もうあと二時間――いや、一時間もしたら、侍女がエレインを起こしに来るはずだ。
だから、眠らない方がいい。半端に眠ると、起きられなくなる。
だが、そう思ってみても眠気には勝つことができず――エレインは寝台に倒れ込むと、すうっと眠りに落ちていった。
「エレイン、どうした?」
「……え? え、ええ……」
結局、あれから二時間弱ほどで起こされたエレインは、寝不足でぼうっとした頭を抱えて朝食の席に着いていた。どうしたのか、と心配そうな口ぶりで聞いてきたのは、父であるリーメルト伯爵ニキアスだ。その隣では、母であるオクサナがにこにこしながらスープを口に運んでいる。
読書をしていて夜更かしどころか徹夜をしてしまった、とは言いづらく、エレインは必死になって言い訳を考えた。
そこに横から口を挟んできたのは次兄のサーシャだ。エレインの十歳年上の兄であり、今は騎士として身を立てている。
「おおかた、一週間後のデビューのことでも考えて眠れなかったんだろ。そういうところがガキなんだよな、エレインは」
「……失礼ね、サーシャ兄さま」
十八歳の誕生日を迎えたのだから、大人として認めてくれてもいいはずだ。だが、この兄は、年齢が離れているせいかことあるごとにエレインを子ども扱いしようとする。
唇を尖らせて反撃しようとして――エレインは、はっと口をつぐんだ。
(そうだわ、そう思わせておけば寝不足の言い訳になる)
サーシャに馬鹿にされるのは悔しいが、夜中に読書をしているのがばれて、ついでに読んでいる本までばれるのは避けたい。
エレインはつんとそっぽを向きつつも、小さく咳払いをして「まあね」と呟いた。
「昨日、ドレスが仕上がってきたでしょう? 手元にあると思うと嬉しくて、何度もクローゼットを覗いてしまったのよ」
そう、実際、昨日はデビュタントで纏う純白のドレスがエレインの元に届けられたばかりなのだ。繊細なレースとフリルで彩られたそれは、少し童顔気味のエレインをかわいらしく引き立ててくれる逸品だ。
そのドレスのことを思い出し、うっとりとした口調で語ると、サーシャは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ほらな。まったく、本当にこれで社交界にデビューしてやっていけるのかね」
「ご心配なく。行儀作法の先生も、ダンスの先生もきちんとできているって太鼓判を押してくださったわ」
にしし、と品のない笑いを漏らすサーシャに向かって、エレインは顎を反らし得意げに言う。それは嘘ではないし、サーシャはエレインのダンス練習の際にはパートナーを務めてくれていたから知っているはずだ。だが兄は馬鹿にした笑いを隠そうともせず、エレインを手にしていたスプーンで指した。
「そういう風にすぐにむきになって言い返してくるところが、子どもっぽいって言うんだよ」
「なによ……それを言うなら、サーシャ兄さまの方がよっぽどおこちゃまじゃないの。二十八にもなって、そんなだから、お嫁さんがきてくれないのよ」
「はぁ……!? いくつになっても恋やら愛やら、夢みたいなことばっかり言ってるおまえの方が子どもだろうが。だいたい、今時男の二十八なんてまだまだ若い、結婚なんて先……」
「なんですって……!?」
サーシャの言葉に、エレインはカッと頭に血が上るのを感じた。以前うっかり「大人の恋って素敵」と漏らしてしまったときのことが脳裏に蘇り、ぎゅっと拳に力を入れる。
あのときも、こうして散々馬鹿にされたのだ。デビュタントとして参加する舞踏会で、素敵な出会いがあるといいな、と言ったエレインに対し、恋やら愛やら、そんなものは結婚してからすればいい――まずは、裕福で安定した家に嫁ぐのが貴族令嬢の幸せというものだ、と。デビュタントの舞踏会で、まず見つけるべきは将来の不確かな恋人ではなく、安定した嫁ぎ先だぞ、と得意げに言い放ったのだ。
だが、最近は自由恋愛による婚姻も増えてきているという。今時、というのなら、遅れているのは兄の方だ。
鬼の首でも取ったように、エレインがそう言おうとしたとき、咳払いの声と呆れたような父の声が耳に飛び込んできた。
「ほらほら、やめないか、朝から」
「だって、お父様……!」
「サーシャ、スプーンを降ろしなさい。エレイン、おまえも兄に対して態度がよくない。まったく……」
父にいさめられ、二人は渋々ながら口を閉ざす。はあ、と呆れたようなため息を漏らすニキアスと、その隣で微笑んでいるオクサナ。
リーメルト家にとって、それはいつも通りの朝の光景であった。
ふん、と小さく鼻息を鳴らして、エレインは心の中で兄に向かって舌を出す。
(絶対……デビューの舞踏会で、素敵な方と出会って……兄さまに目にもの見せてやるんだから)
そう密かに決意すると、エレインは目の前の白いパンに大きな口でがぶりと噛みついた。